11月の米大統領選まで半年。米経済は好調だ。個人消費は旺盛で企業業績も伸びている。背景にあるのは労働者の賃上げだ。米国では2023年に自動車や運輸、航空など幅広い業界の労働組合がスト権を確立し、大幅な待遇改善を実現した。彼らがストライキで得たものは何か。現場を訪ねた。【ディアボーン(米中西部ミシガン州)で大久保渉】

 ◇実現させた〝アメリカンドリーム〟

 「見てくれ。僕が手に入れた悲願のマイホームだ」。米自動車大手フォード・モーターが本社を置く中西部ミシガン州ディアボーン。4月上旬、住宅街の一角を訪ねると、同社で検査技師として働くアンソニー・バルガスさん(39)が玄関先で出迎えてくれた。

 2階建ての地下室付き。青い芝生の庭。目の前の道路にはフォードのスポーツタイプ多目的車(SUV)「エスケープ」が止まっていた。バルガスさんの親世代の多くが実現した典型的な“アメリカンドリーム”の光景だ。

 バルガスさんがこの一戸建てを購入したのは2023年秋。価格は25万ドル(約3800万円)だった。80年超の築古で相場より3割は安い。だが、昇給が長い間止まってきたバルガスさんにとって、それは大きな決断だった。

 長年の夢をかなえたのは、全米自動車労働組合(UAW)がフォードなど自動車大手3社(ビッグ3)を相手に起こした史上初の一斉ストライキだ。UAWは23年秋、40日超の闘いの末に4年で25%の大幅な賃上げを勝ち取った。その果実がもたらされたのだ。

 記者がバルガスさんに出会ったのは1月下旬、首都ワシントンでUAWが開いた集会だった。大幅な賃上げで米国の労働者は何を得たのか。それを知りたくて訪れた会場で、取材に応じてくれたのがバルガスさんだった。

 ◇家賃は上昇、記録的なインフレ

 自動車の街、ミシガン州デトロイトで生まれ育った。大学中退で03年に検査技師の見習いとしてフォードに入社し、2年後に直接契約を結んだ。同級生より給料も良く、将来は明るく見えた。

 だが、07年に「サブプライムローン」問題に端を発する金融危機が起きる。フォードなどビッグ3の経営は瞬く間に悪化。運良く会社には残れたが、昇給が止まり物価上昇(インフレ)に対応した特別手当も廃止された。

 「あれ以来、フォードの労働者は同じ待遇を強いられてきた。なのに経営陣は業績が回復して巨額の報酬を得ている。不平等だ。それが僕たちの問題意識だった」。集会の会場で、バルガスさんはこう熱弁を振るった。

 米国は日本と違い、毎年物価が上昇していくインフレ社会だ。家賃も契約更新のたびに月数十ドル〜数百ドル単位で値上げされる。バルガスさんが住む1人暮らしのアパートも月1500ドル(約23万円)と、住み始めた20年前から2・5倍に上昇。40年ぶりの記録的なインフレにも見舞われた。

 「給料が増えなければ、同じ水準の生活は保てない」。働き詰めの生活を送った。平日は最長で1日10時間、特別手当が出る土日も最長で8時間働いた。それでも年収は約7万6000ドル(約1160万円)。日本人からは高く見えるが、米国では平均的な世帯年収のレベルだった。

 そこに登場したのが、23年3月にUAW委員長にたたき上げで就任したショーン・フェイン氏だ。「徹底的に闘う」と宣言したフェイン氏率いるUAWは40%の賃上げを要求し、23年9月15日にはビッグ3に対する一斉ストに突入。バルガスさんら組合員は連日、工場の周りに集結し、立て看板を手に待遇改善を訴えた。

 ◇ストに勝利、年収4年で350万円増

 バルガスさんはこの頃、職場近くで今の家が売りに出されているのを知った。ストで大幅な賃上げを勝ち取れば安心してローンを組める。住宅価格は上がり続け、この機会を逃せばマイホームの夢は遠のく恐れがあった。「UAWはきっと勝つ」。そう信じて売買契約書にサインした。

 根負けしたビッグ3は最終的に、過去最高水準となる4年で25%の賃上げを提示。バルガスさんの賃金は、初年度は約11%の賃上げで、時給36ドルが特別手当も含めて42ドルになった。仮にスト前と同じペースで働けば、4年後には年収は約9万9000ドルになるという。日本円で350万円以上増える計算だ。

 フォード労使が暫定合意に達した10月25日夜、バルガスさんはリビングで大きく深呼吸した。賃上げ幅はローン返済には十分な金額だった。とっておきのスコッチを開封して祝杯を上げた。

 大幅な賃上げは「競争力を失う恐れがあり、やり過ぎだ」(米証券アナリスト)との見方もある。だが、バルガスさんはこう言う。「いつかすてきな人と出会うんだ。子どもが生まれてマイホームでにぎやかに暮らす。たまに旅行にも出かける。親の世代が味わったような、そんな『普通』の幸せ。それを望むことは強欲なんだろうか。僕はそうは思わない」