オリジナル作品を中心に、映画ファンを魅了してきた吉田恵輔監督の最新作『ミッシング』が公開中だ。突然失踪した幼い娘を捜す家族と彼らを追うメディアの日々を綴った本作は、それぞれの立場で事件に向き合う人々の内面にスポットを当てたヒューマンドラマ。自身が母親になった石原さとみの主演作としても大きく注目を浴びている本作だが、なんと上映館257館のうち約半数の劇場で、公開後の月曜日の動員数が、公開週末(金・土・日)のいずれかの動員数を上回るという、“異例”とも言える活況を見せている。

MOVIE WALKER PRESSでは、これまで『ミッシング』特集を組み強力プッシュしてきたが、今回は吉田監督作品に造詣が深く、本作でも監督に取材を行ってきた映画評論家の宇野維正、森直人両氏を招いて座談会を開催。自身も吉田監督作品のファンであるMOVIE WALKER PRESS編集長・下田桃子も加わり、様々な角度から『ミッシング』の魅力を解き明かす。

※以降、ネタバレ(ストーリーの核心に触れる記述)を含みます。未見の方はご注意ください。

■「吉田監督は今作で初めて、メディアの問題にガッツリ踏み込んだなと思いました」(森)

下田「『ミッシング』、観たあと座席からしばらく立ち上がれないような傑作でした。編集部員や、宣伝の方と話していても、つい熱が入ってしまうんですが…。夫婦関係だけでなく、メディア側もしっかり描かれているのも本作の魅力なので、特集では笠井信輔さんに“報道マンの葛藤”を、鈴木おさむさんにや“テレビの怖さと魔力”を語っていただきました。でも、まだまだ伝えたりないなって。そこで、吉田監督作品としての『ミッシング』の魅力を、ネタバレありでたっぷり語っていただきたいです。まず、宇野さんはどうご覧になりましたか?』

宇野「最初から核心めいたことを言うと、吉田監督がコメディテイストを意図的に廃した『空白』があって、これは長年にわたって共同脚本を書かれていた仁志原了さんが2016年に亡くなられたことを受けた喪失の物語。大切な人がいない日々をどう送っていくかがテーマだったじゃないですか。その後『神は見返りを求める』を挟んで、またこのテーマに立ち返ったことにちょっとびっくりしたという」

森「確かに『ミッシング』は基本的に『空白』からの流れを受け継いだものとは言えますよね。宇野さんがおっしゃったように『空白』は、吉田監督の親友であった仁志原さんを亡くした喪失と、万引きした中学生が逃げる途中で車に轢かれて死亡した実際の事件から立ち上がった物語です。これは裏話ですが、実は吉田監督、愛知県の蒲郡で『空白』を撮ったあとにリップサービスで『蒲郡三部作』を作りたい、みたいなことを口走ったらしいんですよ。だから『ミッシング』の第1稿は『空白』の続編になっていて、古田新太さんが演じた漁師、添田も出ていたそうです」

下田「『ミッシング』の構想は『空白』のクランクアップの日に思いついたもので、当時は沙織里(石原さとみ)の弟サイドが主人公の物語だったと監督が語っています。蒲郡三部作の可能性があったかも、というのも頷けます。夫の豊(青木崇高)は漁師という設定だし、沙織里たちが情報提供を受けて向かう大事なエピソードで、蒲郡が登場しますね」

森「まずは延長線上に立ち上がったという起点はやはり重要だと思います。ただ、『空白』の続編という形だと物語が限定的になってしまうので、やはり別個の新しい物語として紡ぎだすことにしたという経緯があったらしいです。そして『ミッシング』にはメディアというテーマが大きく乗っかってきた。これに関するキーパーソンが、企画で名を連ねた故・河村光庸さんですね。スターサンズの代表取締役であり、『新聞記者』など政治的、社会的な主題を世に問いかける話題作を次々と製作されていた河村さんは、反権力の立場からメディアの問題に強い興味をお持ちだった。残念ながら河村さんは2022年6月に急逝されてしまったわけですが、おそらく吉田監督はその遺志を継ぐべく“河村カラー”を真正面から引き受けたんじゃないでしょうか。『空白』も確かにメディアの問題を扱ってはいましたが、一つの事件をきっかけに起こる負の連鎖的な人間群像劇を描くなかで、現代だとSNSやメディアに触れずにはいられない、といった程度の比重だったと思う。『神は見返りを求める』もYouTuberを扱っていましたが、どちらかといえば彼らの自意識の問題がテーマでした。だから僕は『ミッシング』で、初めて吉田恵輔はメディアの問題にガッツリ踏み込んだなと思いました」

宇野「その流れとは別のラインで、石原さとみさんが吉田監督の作品に出たいと数年前からアプローチしていた。そこに『空白』が高く評価されて、その延長上でなにかできないかみたいな話が合流していったと。そう考えると、単純な作家的動機だけに基づいた作品ではないんでしょうね」

森「あとおもしろかったのは、沙織里が推し活してるアイドルのグループ名が“BLANK(ブランク)”ってこと。これはセルフオマージュというか、『空白』からのユニバース的なつながりを示す記号ですね」

下田「娘が行方不明になった時に足を運んでいたのがBLANKのライブで、彼女が育児放棄だとSNSで責められる原因にもなります。しかも、後半のシリアスなシーンで偶然カーステレオから流れるのが、よりによってBLANKで…。泣き笑いしたくなるすごくいいシーンなんですが。新曲の名前、『マスターピース』でしたよね(笑)」

宇野「なるほどね!」

森「ブランク(空白)がマスターピース(傑作)という曲をやっているっていう(笑)。あと、これは僕の勝手な見方ですが、『ミッシング』は2021年に公開された春本雄二郎監督の『由宇子の天秤』へのアンサーのようだとも感じたんです。負の連鎖的に転がっていく群像劇で『空白』と似た印象もあった作品なのですが、大きく違ったのがメディアの問題に踏み込んだか否か。『由宇子の天秤』はテレビ局のディレクターが主人公で、SNS問題を含めメディア論的な映画でもありました。あと、『由宇子の天秤』で梅田誠弘さんが演じた女子高生の若いお父さん・哲也と、『ミッシング』で石原さとみさん演じる沙織里はある意味似ている。沙織里は自分の子どもが姿を消した時間、アイドルグループの推し活をしていたという負い目があって、印象もヤンママっぽい。要するに育児放棄じゃないかと誤解されやすいお母さんでもある。『由宇子の天秤』の哲也も、いかにもネグレクトしてそうなイメージを持たれちゃいがちな父親像だったんですね。どちらもヤフコメ的な目線だと『絶対アイツが悪いんだよ!』と叩かれそうなキャラクターで」

宇野「前作『神は見返りを求める』で描いたYouTubeの自己承認欲求の問題もそうでしたけど、今作で描いたネットの匿名の書き込みの愚かさも、普通の映画作家だったら義憤が滲みでるような感じで描きがちだけど、吉田監督は正義感みたいなものを排して純粋に人間の滑稽さを表した作劇のネタとして扱ってるクールさがありますよね」

森「よくわかります。吉田さんがやるといわゆる風刺劇にはならないんですよね。社会風刺ってどうしてもイデオロギッシュだし、世界を図式的に整理して解析していく作業になりますけども、吉田監督はあくまで人間を見る。それも多義的な視座で、包括的に。だから宇野さんがおっしゃったように、いくらシリアスな事態でも“どこかおもしろがっている”感じが入る。それは吉田監督の“人間を見る”目の中に、滑稽さという要素も必ず含まれているということですね。だから例えば『ヒメアノ〜ル』がそうですけど、登場人物への距離の取り方次第でコメディにもホラーにも変化する。あと『空白』の時、吉田監督本人が『今回は笑いを封印しました』と言ってましたが、僕は本当かなあ?と思っていて(笑)。というのは、スーパーの前に古田新太さんがずっと立ってるだけの描写って、ある意味ブラックコメディじゃないですか。ただ、その点で言うと『ミッシング』は、なるだけ笑いに傾かないよう、本気で封印を意識している気がしました。まあ、漏れちゃってるところは随所にありますけどね(笑)。だから今回は吉田監督らしい作品であると同時に、これまでの彼の映画にはない新しい感触も僕にはすごく大きかったです」

■「今回の石原さんは、言わば猛獣。吉田組の安定の構図を掻き乱す演者でした」(森)

宇野「吉田監督は基本リアリズムの作家だと思っていて。例えば最近だと『落下の解剖学』は現代なのにソーシャルメディアが一切出てこないじゃない。意図的に入れてないですよね。わりと品の良い監督は、ソーシャルメディアなんて手が汚れるだけだから触らないんですよ。だけど吉田監督はリアリズムの人だから、テレビ局の描き方もソーシャルメディアの描き方もリアリズムがベースにあるよね」

森「泥臭い所にちゃんと突っ込んでいく。『ミッシング』のテレビ局の描き方でおもしろかったのは、今回、吉田監督は組織の中の人間というものをすごく生々しく見つめているなって。例えば砂田(中村倫也)の同僚で、うまく出世していく駒井(山本直寛)という後輩が出てくるじゃないですか。『神は見返りを求める』で言うと、若葉竜也さんが演じた梅川っていうイベント会社の後輩に当たる役だと思うんですけど、吉田監督、こういうタイプの人間が嫌いなんだなって一発でわかる(笑)」

宇野「上手くいってるヤツの描き方は、ちょい体重乗ってるよね(笑)」

下田「(笑)。吉田監督って『設定よりも感情が大切』みたいなことをおっしゃってるじゃないですか。だから社会問題を扱おうとしてるんじゃなくて、シンプルに“沙織里の神経を逆なでする存在ってなんだろう?”と考えてSNSを出した、みたいなリアリティを感じます」

宇野「撮影初日は、その沙織里が掲示板の書き込みを見て、キレるシーンから撮り始めたみたいね。あそこで作品のトーンを決めるということもあったのかもしれない」

下田「劇中で何度か、沙織里が夫の豊に『温度が違うんだよ!』とぶつけるシーンがあります。まさに、彼女の温度の高低に引っ張られながら観ていく作品だなあと」

森「石原さんのヒステリックに振り切っていく演技、“壊れてしまった”としか言いようのない凄まじい熱演に関しては、実は賛否の声もあるみたいですね。でも僕は、親としての立場を考えるとめっちゃリアルだと思った。実際当事者の親だったらあれくらい狂ったようになるでしょう」

宇野「やりすぎって声もあるんだ!?それは思わなかったな。ぶっちゃけて言うと、自分の子どもがこのくらいの歳だったら、つらすぎて観てられないという作品ではあると思う。いま息子は高校生で、サッカーとキックボクシングをやっていて、本気で喧嘩をしたら余裕で俺が負けるんだけど(笑)。でも、それって親としてはようやく辿り着いたものすごい安心感で。だからまだ平常心で観ることができるというのはあった。森さんのところは、いまおいくつですか?」

森「うちの息子は小6なんですよ。だから5年前だったら、画面を直視できなかったと思う。つまり逆に言うと、そのくらい本気の強度がある作品なんですよね。石原さとみさんという役者の資質を考えると、吉田恵輔組にとっては相当異質…“異物”と言えるほど違和のある相性ではあったと思う。吉田監督が好んで起用する役者さんって、抑制も含めてお芝居を巧みにコントロールできるタイプの人が多くて、つまり脚本という設計図の意図を完璧に具体化できる。それが彼の言う『うまい人』ってやつですよね。だからいつも撮るのがすごく早いらしい。でも今回の石原さんは、言わば猛獣で、吉田組の安定の構図を掻き乱す演者だった。それが吉田恵輔にとっても様々な刷新につながった。石原さんは『吉田監督に私を変えてほしい』と申しでたらしいですが、実は石原さんによって吉田監督も随分変えられた。これは『ミッシング』の重要なポイントだと思います」

宇野「先日のインタビューでも、石原さんのギアの入り方を『肩を振り回しすぎて、脱臼して現場に現れたような感じ』と評していました(笑)」

森「そのせいか『ミッシング』は、石原さんの“横顔”が多い映画なんですよね。真正面からだと圧が強すぎるというのもあったかもしれないけど(笑)、それが横になると陰りや憂い、哀しみの感情がとても繊細に醸しでされる。もうこれは石原さとみの“横顔“の映画である、とか言いたくなるほど印象的でした」

宇野「プロモーションの画像もだいたい横顔ですもんね。でも石原さんは被写体として見ると、横顔の顎のラインが本当に美しいんですよ」

森「その沙織里に寄り添う、青木崇高さんが演じた夫の豊の佇まいもすばらしかったです。僕自身はあんまり感情のアップダウンがないので、タイプ的には豊のはずなんだけど、このシチュエーションだったら僕も沙織里みたいになるなあと思って観ていたんですよね。だから豊が静かに引き受けているバランサーの役割って本当にすごいですよ」

宇野「それは俺も思ったかも。セリフにもあったけど、本当は沙織里みたいになりたいけど、彼女が倒れないように逆から引っ張らなきゃいけない。それはすごく伝わってきた」

下田「ホテルで食事をしている時に『自分だけつらいみたいな顔しやがって』と、娘の行方不明時にライブに行っていて連絡が取れなかった沙織里を攻めるような言い方をしてしまったシーンですね。そのあと、一人涙を浮かべて煙草を吸っている喫煙所のシーンまで含めて、豊の堪えっぷりがつらいです…」

森「こういう夫婦が寄り添ってる姿、いままでの吉田さんの映画になかったんですよ。『麦子さんと』なんかはお母さんをめぐるせつない映画でしたけど、これまでの吉田監督作品に出てくる“親”って、離婚していたり死別していたり、必ずシングルなんです。両親が揃って出てるのって初めてじゃないですか?と吉田監督本人に聞いたら、『ミッシング』の豊と沙織里は、自分にとって“親”という目線ではなかったと。監督ご自身と年代の近い大人の男女に起こった試練、という捉え方ってことですよね。結果、パートナーシップの物語というラインがこれほど強く出たのも、吉田監督の映画では初めてじゃないかなと思います」

■「吉田監督作品のユニークさは、ルサンチマンがないところ」(宇野)

宇野「吉田監督って日本では本当に珍しい、アメリカの最前線の映画やテレビシリーズに比肩するレベルの精巧で複雑な脚本を書ける人だよね。『麦子さんと』までは仁志原さんという共同執筆者がいたことも大きいんだろうけど」

森「そうそう!僕も本当にそう思います。すごい作家ですよ」

下田「しかも手掛けた長編作品13本中、10本がオリジナルって、すごすぎます」

森「吉田監督ご本人の印象としても、地頭がめちゃくちゃ良くて、人間を見る目が深い。僕がこれまでの人生で出会った中でも有数のストリート・ワイズってタイプなんですよ。こちらが『吉田さんは頭脳派だと思う』って言うと、でも学生時代の偏差値めっちゃ低かったよと返されるんだけど(笑)。ただその頭の良さは、まさにフィルモグラフィーが証明していますよね。長編13本、初期の『なま夏』や『メリちん』も含めると計15本が全部佳作以上って、世界で見ても驚異的なアベレージの高さじゃないですか」

宇野「圧倒的に脚本力だよね。テクニックで上手い方はいるけど、脚本を書く能力ではダントツだと思う」

森「だから吉田監督は“自分で脚本を書く”のが絶対条件なんですよね。脚本が書けた段階でほぼ(映画作りが)終わったと思っているらしく、だから撮るのはさっさと済ませたい、みたいな(笑)。ただ繰り返しになりますけど、今回の『ミッシング』はいつもと違う生息地域からやって来た石原さんに引きずられる形で、これまでにない熱量と、重厚でシリアスなトーンを獲得できたようにも思います」

宇野「どんな優れた作家でも、得意なことしかしないとある時点から自己模倣になっていきますよね。最初は石原さんと組むイメージが湧かなかったって言ってたけど、作品にとっても、監督のキャリアにとっても、今回はすべてが良い方向に転んだと思います」

下田「今回、劇場用パンフレットに決定稿のシナリオが収録されているんですよね。石原さんのお話では『ここで泣く』とか『嗚咽』などのト書きも参照されていたそうなので、あの演技がシナリオ上でどう書かれていたのか、読み見比べるのも本作の楽しみ方だなあと思っています」

宇野「脚本が優れすぎているので、観客の側が問われる作品だと思うんですよね。結末の話になっちゃうけど、僕は映画を観る時にクリティックとしての立場で観る一方で、これが観客にどう見られるのかという視点もあって。それでいくと、この結末で大丈夫なの?と思ったんですよ。一般的なお客さんは、ハッピーエンドかバッドエンドか、みたいな見方になりがちなので」

森「僕の印象では、吉田作品は『机のなかみ』や『さんかく』など初期の頃から、そのほとんどが“地獄めぐり”の物語なんですよ。しかも凄いのは、幾多の映画監督みたいに神の目線みたいな所から創出するんじゃなく、監督が自分も一緒に地獄に堕ちてくれるんですよね。だから人間を見つめる目線も優しいんです。今回も沙織里と一緒に地獄を彷徨う、みたいな感じがある。しかも、これ以上突き進んだらきついよなってギリギリのところまで行きつつ、さらに一歩越えちゃうんです。ギリギリアウトの領域にまで踏み込んじゃう(笑)。『愛しのアイリーン』の後半とか、まさにそうですよね。そこがタフだと思うし、どこまでもつきあってやるよ、みたいな本質的な優しさを感じる」

宇野「それに付け加えるなら、吉田作品のユニークさはルサンチマンがないところなんですよ。格差社会の下側からの怒りだとか、社会をひっくり返してやろうみたいな部分がないのは、それが良いか悪いかは別として、日本映画界においては本当に貴重で」

森「確かにそうですね!さっきの風刺劇にならないってことに通じますけど、吉田監督って“一矢報いる”みたいなカウンター意識とは程遠い人。ルサンチマンがないってことは、やはりすべてをニュートラルに見ているってことでしょうかね。吉田監督は今回の森優作さん演じる圭吾もそうだけど、いわゆる“イケてない男性”を好んでよく描いてきた。その滑稽さをしっかり映画の旨味にしちゃうんだけど、同時に、いやそれ以上に彼らの尊厳も深く見つめている。その塩梅が抜群なんですよね」

宇野「社会に一矢報いてやろうみたいなのって、1970年代までならまだしも、いまやリアリズムではないからね。這いつくばって生きてるなかにも楽しいこと、嬉しいこと、美しいことがあって、それを実感として知ってるかどうかだと思うんだよね。いわゆる社会派の映画作家には、そこの想像ができていない人が少なくない」

森「なるほど、確かに社会問題を扱う映画には、かわいそう、という知的な作家のある種傲慢な視点が無自覚に発動しているものが多いかもしれない。『ミッシング』は上から目線の社会派映画とは全然違いますよね」

下田「確かに、吉田監督の目線はやさしいですよね」

宇野「それと、夫婦がこの先別れずに生きていくところまで映画は示唆しているよね」

下田「後半に出てくる別の女の子の行方不明事件の時、豊がテレビを見ながら『絶対こんなの母親が原因に決まってるじゃん』と沙織里の前でポロっと言って。失言をするけど、すぐに気づいて謝れる。そうやって、わだかまりながらも関係を修復し…みたいな描き方も上手いなと思いました」

森「豊が圭吾を犯人なのではないか、と実は疑ってることを示した、2人が横に並んで座る沈黙のシーンも印象的でしたね。あんなに長い沈黙は、吉田恵輔映画で見たことないですよ。今作では新しいことをいろいろ試みている感じがします。最初に宇野さんが言ったように、(『空白』の)続編として企画が立ち上がっているからこそ、自己模倣の罠に陥らないように、まったく違うアプローチを試みたって部分は大きいと思います」

宇野「『神は見返りを求める』の時は、いくらなんでもタイプキャストすぎない?って(映評に)書いたんですが、やっぱり今回は石原さとみの存在がすごく重要だったと思う」

森「どう転ぶかわからないような攻めの人(=石原)をドンと中心に置いて、まわりは全部受けの演技。で、その受けが本当に上手い人ばかり」

宇野「中村倫也さんとかめちゃくちゃ上手いからね」

森「演技アンサンブルの設計に関しても、鉄壁のフォーメーションを組んでますよね。またその端っこに、訳のわからん質問を投げてくるようなおばちゃんとか“ガヤ”を担当する精鋭エキストラ陣を配している(笑)」

下田「ワークショップで選ばれた皆さん、めちゃくちゃ味がありますよね(笑)。さきほど両親の描き方の話がありましたけど、吉田作品における“兄弟”ってどうなんでしょう。というのも、沙織里は自分がライブに行ってたという自責の念が、圭吾に向かうじゃないですか。ドアを蹴って取材に引っ張りだすあたりとか、夫への詰め方とは違うゾーンに入る感じ。あの夫婦とは違う距離感の描き方も、すごいと思ったんですよ」

森「『犬猿』がまさにそうですけど、パワーバランスが歪んだ兄弟姉妹はよく描いてますね。これも吉田監督の生い立ちの反映というか、彼自身が持ってらっしゃる極私的なリアリティが絡んでいるのかなと思います。吉田監督がおっしゃってますけど、初期作品のオリジナル脚本ってほぼ彼自身の実体験をベースに組み立てているんですよね。でも『銀の匙 Silver Spoon』あたりから他作家の原作ものをやられるようになり、自分が知らない世界を想像力で描くようになった。今回はその想像力を補強する意味でも、石原さんにお子さんが生まれるという神がかったタイミングで撮影できたのは本当によかったんじゃないかと思います」

宇野「ですよね。ただ気軽に小さな子どものいるお父さん、お母さんには勧められない…。うますぎるんだよ。伏線の在り方とかミスリードの仕方とかも含めて。吉田監督がメジャーで撮るのはこれが初めてではないけれど、今後そのフィールドで活躍していく流れが今作でようやく始まったんじゃないかな」

森「インディペンデントで注目された監督が、メジャー作品になると自分の個性が抑圧されて強度が下がる例が国内外問わず多いですが、『ミッシング』は攻めながら風格もあるという理想的な形に結実した例だと思います。きっと2024年のベスト映画の上位に挙がってくる1本じゃないですかね。…って、気づけば随分しゃべりましたね。もう言い残したことはないかな?」

宇野「あるとしたら、次はどういう作品を見たいかという話だろうけど、おこがましいよね」

森「ですね。常にこっちの想像を超えてくる作家ですから」

取材・文/神武団四郎

※吉田恵輔監督の「吉」は「つちよし」が正式表記