第二次大戦時、ナチスドイツによる各地でのユダヤ人殺戮のなかで最大級の犠牲者を出し、「ホロコースト」の代名詞として語られる「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」。ナチスは、その収容所を取り囲む40平方キロメートルの地域を「The Zone of Interest(=関心領域)」と名付けていた。

A24製作の映画『関心領域』(公開中)の主な舞台は、その「関心領域」であり、収容所のすぐ隣に位置している邸宅である。そこには、収容所の所長ルドルフ・ヘスと、その家族たちが住んでいた。本作はそこで起こっていたと思われる出来事を、イギリスの作家、マーティン・エイミスの小説を基に、淡々と、しかし絶えず不穏さや緊張を伴って映しだしている。

『関心領域』は、一筋縄ではいかない前衛的な作家性を持つ映画監督ジョナサン・グレイザーの手による一作でもある。それだけに、裏に秘められた様々な意図や、1回の鑑賞ではなかなか気づけない演出が存在しているのも事実。ここでは、そんな一つ一つの要素を解き明かしながら、作品全体への理解をさらに深めていきたい。

※本記事は、ネタバレ(ストーリーの核心に触れる記述)を含みます。未見の方はご注意ください。

■史実に基づいて再現された、”幸せな家族”の姿

当時のヘス一家の日常は、いまも残る実際の家族写真が物語っている。子どもたちはプールや庭園ではしゃぎまわり、両親たちは幸せそうに微笑んでいる。こういった資料や現存する建造物を基に、本作では、“幸せな家族”の在りし日の光景を再現している。ちなみに、ヘスの暮らした本物の邸宅は保存状態が悪く、現在はユネスコの世界遺産にも指定されセットの建造などが禁止されていたため、撮影クルーは収容所近くの廃屋をリノベーションして使用したということだ。

家族の団らんの姿だけを観れば、彼らも世の多くの家族たちのそれと変わらないのかもしれない。だが異常だと思えるのは、それが大勢の人々が虐殺され、死体が燃やされ続けた、アウシュヴィッツ収容所のすぐ隣だという点なのだ。戦後、ヘスが処刑される前に書いた手記のなかでは、家族が収容所の実態を知っていたかどうかには触れられていない。果たして、ホロコーストの現場のすぐそばに住んでいて、そこで行われていたことを知らずにいるというのは、あり得るのだろうか。

注意してほしいのは、家族たちの日常をとらえた本作のシーンにおいて、収容所の方向から悲鳴や銃声など、明らかに尋常ではない音が、時々聞こえてくるところである。同時に機械音も耳に残るのだが、これは当時、収容所からの音を目立たなくするよう、オートバイのエンジン音を出してごまかす「サウンドマスキング」を施していた状況を再現したものなのだという。当時は、そのエンジンをかける仕事だけをする人員が雇われていたともいわれている。

■固定カメラでの撮影によって引きだされた客観性

本作は、ヘスや家族の姿を美化せず、逆に陳腐化もせずにフラットな姿勢で映像化するため、基本的に照明を用いず、自然光で撮影している。しかも、キャストたちの自然な演技を引きだすために、隠しカメラのように敷地内の様々な場所にカメラが仕込まれてもいた。演技者が視線を意識せずに役を演じることで、あらゆるドラマティックな表現が意図的に排除され、観客は多くの映画作品に比べ、より“客観的”に彼らを観られるということになる。

このあたりが、グレイザー監督らしいところだ。彼は、『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(13)などの過去作がそうだったように、従来の「映画的」とされる慣習から離れ、題材に合った表現手法を一から慎重に模索することを選択するような、知性と挑戦の精神を持っている。高い評価を得ながら寡作なのは、こういうところに理由があるのだろう。

■サーモグラフィの演出意図と、「ヘンゼルとグレーテル」

ドイツ語でヘスを演じているのはクリスティアン・フリーデル、そして妻のヘートヴィヒ・ヘス役を務めているのは、ザンドラ・ヒュラーだ。共にドイツでの豊富なキャリアを持ち、様々な賞を獲得している名優だ。この2人をも、あえて淡々と、普段の生活を送っているようにとらえることで本作は、このやり方でしか表現し得ないリアリティの表現と、観客の能動的な思考を促すことに成功しているのである。

このように作為を薄めようとする本作において異色なのは、軍用のレンズと、熱を可視化するサーモグラフィを利用した、夜の撮影シーンである。ここでは、心優しいポーランドの少女が、闇の中で収容者の作業場にリンゴなどの作物を隠し、飢えた人々を助けようとしている姿が映しだされる。この登場人物は、グレイザー監督が本作の用意のために現地で取材していた時に出会った90代の女性の若いころをモデルにしているのだという。

当時、ポーランドの非ユダヤ人である少女は、なにかできることをしなければという想いに駆られ、実際に作業現場に食料を置いていた。それは、あまりにも非人間的な環境のなかにあって、対照的といえるほどに尊い行為だ。暗闇で彼女が光っているように映しだされる演出には、そのような意図が反映されているのだ。また、その様子は、劇中でルドルフが子どもたちに読み聞かせるグリム童話「ヘンゼルとグレーテル」にも重ね合わされる。主人公たちがパンくずを道しるべにしたように、食べ物を散りばめていく行為は寓話的ですらある。

そんな少女が、偶然に作業現場から見つけた手書きの楽譜をピアノで奏でる場面も印象的だ。音にならない声として、字幕で表示されるのは、実際にアウシュヴィッツ収容所に収監されていたヨセフ・ウルフ(ジョセフ・ウルフ)の詩である。彼は施設の中でいくつもの詩や曲を作り書き留めていた人物で、生還後もナチスの犯罪行為を世に知らしめようと活動していた。このように、狂気と暴力への抵抗の意志が、本作のシーンで交差することになるのである。

■曖昧になる、ヘス夫妻と観客の境界線…

そんな神聖ともいえる人間のあたたかさや、ひたむきな精神が描かれる一方で、人間の残酷さ、無関心さが、本作では継続して描かれ続ける。戦慄させられるのは、邸宅の地下の浴室から、収容所につながる通路があったという事実だ。“幸せな家”と“殺戮の施設”は、隣接してるばかりでなく、つながった空間だったのである。その地下通路を利用してヘスが、性的に不適切な行為を行っていた可能性を、映画は示唆している。

さらに恐ろしいのは、妻のヘートヴィヒが、このような環境にありながら、以前から夢見ていた理想的な暮らしを手に入れたとして、この場所に住み続けることを強く望む描写だ。こういった、あまりにも無神経な態度には、多くの観客が驚きを隠せないだろう。しかし、われわれ観客とヘス夫妻には、そうやって分断できるほどの違いが、本当にあるのだろうか。

考えてみれば、われわれもまた生活のなかで、いろいろなものを見逃し、多くの悲劇や理不尽に対して無関心であるといえるのではないか。自国の政府が戦闘行為を行う国家に援助したり、国内の企業が軍事産業に加担して、それが被害をもたらすことに、われわれは関心を持って反対しているだろうか。自殺率が非常に高い社会において、誰かが列車に飛び込むような人身事故が起きても、それを日常の出来事だとして平静に振る舞っているのではないか。移民や外国人が差別され迫害されていることに反対できているだろうか。程度の差こそあれ、われわれはヘス夫妻を異常な存在だとして、自らと切り離すことは難しいかもしれないのである。

■ラストシーンの演出から読み取れること

所長として粛々と仕事をこなし、ヘスは組織からの評価を高めていくが、映画の終盤で、彼は突如として吐き気をもよおすことになる。その理由ははっきりと描かれてはいないが、残虐な行為を正当化し続け、罪悪感とは無縁な態度をとっていた彼も、無意識の領域においては、その罪の深さに震撼し、精神のバランスに崩壊をきたしていたのかもしれない。その可能性を示唆したことで、いよいよ彼と観客との境界は曖昧なものとなっていく。

そしてヘスは、人類の愚かしさとユダヤ人の被害を世に知らしめるための博物館となった、現在のアウシュヴィッツの姿を、束の間幻視することになる。現代の目で見れば、われわれは死刑になった所長のやったことを異常なことだとジャッジし、健全な態度として“吐き気をもよおす”ことができる。問題は、われわれ自身が、自分たちや、自分たちを取り巻く社会の異常を、異常なものとして認知できているのかということである。未来の目から見れば、われわれのやっていることもまた、吐き気をもよおすものであるかもしれないのだ。

自身もユダヤ人であるグレイザー監督は、本作のアカデミー賞国際長編映画賞受賞の際のスピーチにおいて、以下の発言をしている。現在、ガザ地区で起こっている事態に対して関心を持たせ、議論や行動を促そうとする彼の勇気は、本作のテーマを深い地点でわれわれに理解させ、そのメッセージを真に際立たせている。

■アカデミー賞受賞会場でのジョナサン・グレイザー監督スピーチ(抜粋)

「私たち作り手の選択はすべて、“いま”を映しだし、対峙するためになされました。『あの時彼らがなにをしたのかを見ろ』と言うためではなく、『いま私たちがなにをしているのかを見ろ』と言うためのものです。

私たちの映画は、人間性の喪失が最悪の結果を生むことを示しています。それは私たちの過去と現在すべてをかたちづくってきました。

私たちは、ユダヤ人であることやホロコーストを奪い取り、罪のない多くの人々を巻き込む紛争、占領の正当化を拒む人間として、ここに立っています。

イスラエルの10月7日の犠牲者であれ、ガザへの進行中の攻撃であれ、この人間の喪失がもたらしたすべての犠牲者に対して、私たちはどのように抵抗するでしょうか。

アレクサンドラ・ビストロン・コロジエイジチェック…この映画で輝いている少女のモデルとなった女性は、そうすることを選びました。私はこの賞を、彼女の記憶と抵抗に捧げます。ありがとうございます」

文/小野寺系