世の中が激動し、疫病に苦しめられた中世ヨーロッパを支配した王たちは、戦争と同盟、そして権力闘争に明け暮れた。そのなかには、たぐいまれな能力と政治センス、粘り強さをもって権力を行使した5人の力強い女王たちがいた。時には、そんな彼女たちの支配が残酷な結果を招くこともあった。興味をそそる5人の女性の物語を紹介しよう。

アウストラシア王妃ブリュンヒルデ

 ブリュンヒルデは、西暦543年頃に西ゴート王国の王女として生まれ、567年にフランク王国の分国であるアウストラシア(現代のドイツ北部、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの一部)の国王シギベルト1世と結婚する。しかし、王妃となったブリュンヒルデは家族間の醜い争いに巻き込まれてしまう。

 ブリュンヒルデの姉のガルスビンタは、シギベルトの異母弟であるキルペリク1世と結婚したものの、彼の妾だったフレデグンデの要求によって無残に殺害された。姉を殺されたブリュンヒルデはフレデグンデへの怒りを燃やし、その後40年にわたって両者は激しく対立する。

 575年頃、シギベルトが毒の塗られた短剣で暗殺された後(これもフレデグンデの差し金であったと思われる)、ブリュンヒルデはルーアンの牢獄に幽閉される。しかし、息子のキルデベルト2世が王位に就くと、アウストラシアに戻り、若き息子の摂政として実質的に国を支配した。

 西ローマ帝国崩壊後のアウストラシアにおいて、ブリュンヒルデは優れた指導力を発揮して、古い道路を修復し、教会や修道院を建設し、要塞を築き、軍隊と税制度を再編成した。

 595年にキルデベルト2世が26歳で死去した後、ブリュンヒルデは2人の孫の摂政として再び実権を握った。しかし、心優しい祖母というイメージとは程遠く、政治においては冷酷だったブリュンヒルデは、お気に入りの孫が結婚して自分に歯向かってこないように、妾を何人も与えて暇を作らせなかった。

 そんな彼女の時代にも、終わりを告げる時は来る。613年に、長年のライバルであったフレデグンデの息子が、70代のブリュンヒルデを10人のフランク王殺害の罪で告発し、処刑を命じた。彼女の体は馬に引き裂かれ、遺体は跡形もなく火で焼かれたと伝えられている。

アキテーヌ女公アリエノール

 1137年に父親の死によって広大なアキテーヌ公国を受け継いだアリエノールは、15歳にして突如、12世紀のヨーロッパで最も強大な権力を持つ女性となり、最も妻にしたい女性になった。

 事実、アリエノールは2人の王と結婚する。最初の夫であるフランス国王ルイ7世とは、1137年に結婚したが、15年後に離婚し、イングランドのヘンリー2世と再婚する。しかし、これもまた後に破局を迎える。強い意志と気まぐれさを併せ持つアリエノールは、自分の領地を支配しながらそれぞれの結婚相手の国の政治にも積極的に関わった。

 アリエノールの根性が試されたのは、2番目の夫ヘンリーに対して子どもたちが反乱を起こした後のことだった。アリエノールは子どもたちの側についたことでヘンリーに捕らえられ、イングランドに軟禁された。それから10年間は、権力を剥奪され、表舞台に姿を現さなかった。

 1189年にヘンリーが死去して息子のリチャード1世が即位すると、アリエノールは再び権力の座に返り咲く。リチャードが第3回十字軍遠征に出ている間、アリエノールは摂政として、王座を狙うもう一人の息子ジョンを抑え、国の分断を防いだ。

 1204年、アリエノールはフォントブローの修道院でその生涯を閉じた。修道女たちは、アリエノールについて「世界のいかなる女王にも勝る女王だった」と書き残している。

次ページ:薔薇戦争を戦ったマーガレット・オブ・アンジューほか