【松尾潔のメロウな木曜日】#89

 青春はいつ終わるのか。

 それを「好きなバンドが解散すること」と定義したのは、たしか小説家の樋口毅宏さんである。

 いつだったか酒場でこの話題になり、居合わせた連中全員がひとりひとり「解散した好きなバンド」の名を挙げることになった。特に指定したわけでもないのに、挙がるのは日本のロックバンドばかり。あ、オアシスと言った人もひとりいたっけ。青春を仮託するほど思い入れのあるロックバンドを持たぬぼくは、早くこの話題が終わるようにと密かに念を送るも力およばず。ついに自分の番となり、腹を括って「トニー・トニー・トニー」と米国の黒人R&Bバンドを挙げたのだが……しーん。予想通りのしらけた空気が流れる。やっぱりなぁ。早く終わってほしい話題を終わらせたのは、皮肉にも自分自身だったという笑い話。

 そう。ある世代以上の日本人にとって、ブラックミュージックはお呼びでない場面は珍しくない。マーケットシェア1%以下と言われるブルースとなるとなおさらだ。そんな「ブルース」を社名にいただく会社「ブルース・インターアクションズ(現Pヴァイン)」を高地明さんと共に立ち上げた日暮泰文さんが、5月30日に亡くなった。享年75。独自の視点と圧倒的な修辞力を備えた音楽評論家としても多くの著作を残した。

 日本最大のカタログ数を誇るインディペンデントレーベルに成長したPヴァインの歩みは、そのままこの国における黒人音楽の受容史だ。同社の公式HPによれば沿革は以下の通り。1975年、ミニコミ誌『ザ・ブルース』の商業雑誌化を目的とし、有限会社ブルース・インターアクションズを東京都世田谷区に設立。76年、外国レコード会社と原盤契約のもとにLPを発売する独立レーベル「Pヴァイン」を設立。ブルースをはじめとしたブラックミュージックのリリースを展開し、後続インディーレーベルの草分け的存在に。79年、外国アーティストの招聘業務開始。またこの頃から、アメリカに留まらずカリブ、アフリカ地域のポピュラー音楽も販売して「ワールドミュージック」ブームの先取りをしてきた。邦楽にも進出し、キングギドラ、そしてクレイジーケンバンドで破格の成功を収める……こんな具合。2007年にはスペースシャワーネットワークの完全連結子会社となり、創業者の日暮・高地両氏は退任。〈日本ブルース人生双六〉があるとすれば、大きな創業者利益を手にしたであろう両氏はその上がりの姿かもしれない。

人生初の原稿料はPヴァインから得た

 Pヴァイン=Peavineは「豆の木のツタ」を意味する。ブルースゆかりの地である米国ミシシッピ州のデルタ地帯、その広大な綿花畑の中を豆の木のツタのように伸びる鉄道の引き込み線。20世紀初頭、黒人労働者たちを乗せてこの引き込み線を走る蒸気機関車はピーヴァイン・トレインと呼ばれ、ブルースの曲にも歌われてきた。それをレーベル名にした日暮さんの視座が、つねに被支配者側、つまり「される側」にあったことは言うまでもない。若き日暮さんにつよい影響を与えたジャーナリスト本多勝一の著作に『殺される側の論理』があったことを思いだす(いま読めば多分に感情的、煽動的な表現も気になる本だけど)。

 ぼくは学生時代に高地さんに〈見つけられた〉。文字通り発見されたのである。高地さんから依頼を受けて同社の月刊誌『ブラック・ミュージック・リヴュー』(元『ザ・ブルース』)のレギュラーライターとなり、人生初の原稿料を得た。親の名前以外で初めて記帳された振込者名は「ブルースインターアクシ」。欄内に収まりきれない長い社名に苦笑したのも懐かしい。当時スタッフ数名の同社を率いていたのが日暮さん。寡黙な彼は強面の旦那、せっかちな高地さんは話しやすい番頭さんというのが第一印象だった。

 原稿料は、わずかな額でも、まぎれもなく労働の対価だった。ぼくが音楽について書く文章はどうやら〈商品〉として通用するらしい。ならば自分はすでに社会へのパスポートを手にしたということではないか……とんだ思いあがりだが、世間知らずの大学生がそう信じ込むには、たった一回の振込で十分だった。実際のところ、それ以来ぼくは音楽と言葉だけで生計を立ててきたのだから、ふたりへの感謝は計り知れない。

 まだ大学卒業前だったか、慣れぬラジオやテレビの仕事に悪戦苦闘していたころ、日暮さんの結婚パーティーに招かれた。神宮外苑前の瀟酒なレストラン。あっちの人だかりの中心にいるのは「ポッパーズMTV」のピーター・バラカン! こっちの見憶えある美女は誰だっけ? きっとエンタメかメディアの人なんだろう。愉しい時間はあっという間に過ぎていく。でも胸のうちで肥大していく不安の種にぼくは気づいていた。新郎に人生を変えられた自分は、こんなに自信に満ちあふれた人たちのなかで、今後うまくやっていけるのか。いま自分は笑ってる場合なのか。

 どんなスリリングなブルースにもいつか終わりが来るように、このパーティーにも終宴が近づいた。ホールの扉に並ぶ新郎新婦の前に、出席者の長い行列ができる。初対面のうつくしい新婦に気の利いた言葉を贈りたいとぼくの気持ちは急くのだが、会場の華やかな雰囲気に気圧され、喉が渇いてばかり。いざ順が回ってきても自分の名前を言うのがやっと、モゴモゴと口ごもる始末。祝福するどころか新婦に気を遣わせてしまっている申し訳なさと不甲斐なさとで胸が痛い。

 すると、寡黙で知られる日暮さんが柔和な笑みを浮かべ、新妻にこう言ったのである。

「この人はね、あと何年かしたら、みんなが知るようになる人だよ」

 それから30年ほどの歳月が流れた。あのときの言葉がぼくをどれだけ支えつづけてきたか。

 日暮さんの存在はぼくにとってあまりに大きすぎて(あるいは大切すぎて)、これまで親しい人にさえ関係を詳らかに語ったことはほとんどない。好きなロックバンドを持たなかった自分の青春は、日暮泰文の死でようやく終わった。そんな気がする。ブルースマンたちが集う通夜で焼香をあげた後、そう思いあたった。斎場を出ると目黒の路地に紫陽花が咲いていた。

(松尾潔/音楽プロデューサー)