2023年の期間内(対象:2023年9月〜2023年12月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。インタビュー部門の第4位は、こちら!(初公開日 2023年9月28日/肩書などはすべて当時)。

 60年以上続く人気番組『おかあさんといっしょ』で第12代「体操のお兄さん」を務めたのが“誠お兄さん”こと福尾誠だ。2019年に番組に抜擢されると、親しみやすいキャラクターで瞬く間に人気を集め、今年2月の卒業発表時には多くのファンから「誠ロス」の声が続出した。4月に発売された卒業記念ムックは発売前重版、4万部を突破するなどその人気はいまも衰えない。

 その福尾だが、実は幼少期から体操競技をはじめ、大学時代は五輪出場を目指すなど日本トップクラスの選手だった過去がある。いま、本人が振り返るアスリート時代の秘話と、“あの選手”との関係とは――?《全2回のインタビュー前編/後編につづく》

◆◆◆

 誠お兄さんが、まだ誠お兄さんになる前の話。

 福尾誠には夢が2つあった。そのうちの1つがはっきりとした形を持ったのは2004年、中学1年生の夏。テレビの向こうにその世界は広がっていた。

《伸身の新月面が描く放物線は栄光への架け橋だ!》

 アテネで開催されていたオリンピック。刈屋富士雄アナウンサーがそう叫び、冨田洋之がぴたりと着地を止めた場面を福尾も自宅のテレビで観ていた。

「冨田選手が着地を止めて金メダルを手にした瞬間。あれを見た時に僕もいつかここで演技をしてみたいという気持ちが芽生えました。そこがスタートです」

 すでに器械体操を始めていた(そしてかなり優秀な成績を残していた)少年にとって、自分も金メダルを目指してみたいという発想は自然なものだったのだろう。

高校1年生からはジュニアのナショナルチームに参加

 高校は親元を離れて岡山の関西高校に進み、1年生の時に18歳以下のジュニアナショナルチームに選出された。

「田中佑典さんが2つ上、下だと小学生の頃の白井健三。あとは加藤凌平もいましたね」

 いずれものちの五輪や世界選手権の金メダリスト。他にも全国から集ったエリートたちにまじって「そこから夢であったオリンピックが目標に変わりました」。

「今までは試合会場でしか会えなかった他の選手と練習の段階から会うことができて、彼らの練習の仕方、得意な部分の伸ばし方、苦手を克服するための取り組みなどを見ることで、自分に足りないものを考える時間が増えました。試合数も増えて試合での経験値も増えていったんです」

 中でも強烈な印象を受けたのが内村航平だった。言わずと知れた体操界のキング。その演技は学生時代からずば抜けていたという。

 福尾が中学3年生で出場した国体予選、そこに内村も出ていた。すでに内村の名前は体操界では知れ渡っており、福尾もその名前は知っていたが、実際に演技を見るのはこの時が初めてだった。

「内村さんは当時高校3年生で、もうトップ中のトップ選手でした。会場練習から見ていてどんな演技をするのか楽しみにしていたのと、自分とどれくらい点数の差がつくのかも少し楽しみでした。確かその日は6種目全部で優勝したんですよ。予選会なのでフル構成ではやってない。力を抑えてやってるのに、自分が全く手が届かない点数を出していて、それは大きな衝撃でした」 

 その後、ナショナルトレーニングセンターでは、すでに大学生になっていた内村と一緒に練習する機会もあった。その動きは練習中から見惚れてしまうほどだったという。

「体操って採点競技なので見栄えや美しさを人間が見て評価するんですけど、内村さんはいつも同じことができる。試合によってバラつきがない。演技を見ただけでどれだけの練習を積んできたのかが分かるんです。

 そして、繰り返し同じようにできるんですけど、機械のように動いているわけではなくてすごく滑らかで美しい。かつ簡単に大技をこなす。必死こいて大技にチャレンジをしている僕みたいな人間と簡単に大技をやってのける彼では、やっぱりちょっと格が違いました」

 並外れた努力を重ねるトップレベルのアスリートだからこそ、努力だけでは辿り着けない境地を感じることができるのだろう。その境地に立っている者のことを天才と呼ぶのかもしれない。

「もうファンでした。この人には追いつけないなって。競技者としてこんなこと言うのはよくないけど、勝とうと思ったことは……正直ないですね」

 他の選手にはメラメラと対抗心を燃やす福尾が、内村に対してだけは3学年離れていたことに安堵した。高校、大学というカテゴリーで出場大会がほぼかぶらずに済んだからだ。そして、競り合う気持ちよりも別の思いが芽生えた。

「内村さんに勝てなくてもチーム戦で一緒に戦うことはできる。だから一緒にチームを組めるようになりたい」

高3のインターハイは個人総合で全国準優勝

 刺激的な環境に身を置くうちに、競技力はグングン伸びていった。高校2年のインターハイは個人総合16位。それが3年生に上がる直前の選抜大会では2位、そして、3年の夏のインターハイでも2位となった。特に跳馬は上位の出場者では唯一の16点台とずば抜けたスコアを残した。

「足を使う競技、床と跳馬が特に得意でした。他の選手と比べても体操競技では身長が高い方だったので、吊り輪とか力技が必要なものは少し苦手。ただ、表彰台に立ってメダルをもらえるのはすごく嬉しいですけど、2位ですよ? やっぱりもう一つ上に行きたかったです」

 高校を卒業して順天堂大学に進学したのが2010年。大きな目標としてきたロンドン五輪は2年後に迫っていた。ところが、この年の福尾は世界選手権の選考会を兼ねた春先の全日本選手権やNHK杯には出場していたものの、8月のインカレは欠場している。

「順天堂の中でも上の方でレギュラーとしてメンバーには入っていたんですけど、試合までの過程と体調管理であったり、ベストコンディションに持っていくことができませんでした。監督含めてコーチ陣が僕のその状況では戦うことができないと判断したんです」

 当時の順大はまだ現在ほど選手層が厚くなく、全日本やNHK杯でも決勝に残ったのは福尾の他に一人しかいなかった。それでも起用されなかったのだ。

「高校生から環境が変わって、住まいが変わって食事も変わって、競技に力を入れたいタイミングで体調を崩すことが多かった。大学の授業は1限が90分あって、新しい勉強をしてから部活の時間があるっていうのが……」

 いまだにどこか消化しきれない思いが残っているのかもしれない。本心を覆い隠すように急いで言葉を連ねた後、福尾は一呼吸おいてこう言い直した。

「……うん!言い訳ですね。みんなそれをやってる。僕はそれができなかった。だから必然的に出場できなかった。ちょっと天狗というか、『とはいえ使うでしょう』という意識もありましたし、当時は18歳で『なんで出してくれないんだ』とも思いました。でも、いざ大人になって振り返ってみたら、僕がコーチでも出さないですね」

大学での故障と手術、リハビリ…ロンドン五輪は断念

 インカレはインカレ、自分の目標はあくまでオリンピックと切り替えることはできたという。ところが、大学生活にも慣れ、練習量を増やし、少しずつ体操に没頭していこうとするうちに、2年生になって今度は肩に違和感が出始めた。

 その違和感が積み重なっていったある日、吊り輪の練習中に「ブチっと切れた」。肩関節の安定した動きを支える上方関節唇の負傷。野球のピッチャーやバレーボール選手にも見られるような怪我で、手術か保存療法かの選択を迫られた。大学3年の春、目標としてきたロンドン五輪の選考会はもう目の前に迫っていた。

 福尾は手術を受けることにした。その時点でロンドンの夢は消えた。

「オリンピックがあって、だましだまし続けるかどうかという選択もある中で、きちんと治してもう一度ちゃんと練習がしたいと思いました。オペが終わって麻酔が切れたときはもう復帰したくないと思うぐらい痛かったですけど(笑)。トップアスリートでも怪我から復帰して活躍している選手はたくさんいる。怪我したことの全てが挫折というわけではなく、この手術をしたからこそ待っている結果があるはずだとポジティブな思いも抱いていました」

 リハビリを経て復帰するまで1年を要した。ただし、練習を積める体は取り戻すことができた。体操選手として最も競技に打ち込んだ時期がいつだったのかというなら、福尾にとってはこの1年間、そして8月末にインカレを迎えるまでのこの時期だったかもしれない。

 心身ともに準備は整った――はずだった。しかし、満を持して迎えたこのインカレで福尾は体操選手として引導を渡されることになる。

 福尾誠、67位――。

 オリンピックを目指した男の学生生活集大成の大会。4年生のインカレは期待には遠く及ばない結果に終わった。

「手術、リハビリ、練習して1年間必死に食らいついて、順天堂大学の中でインカレに出場できるところまで持っていけたのはよく頑張ったと自分でも思いました。ただ、会場に行って試合をしてみたら……」

 高校時代から競い合ってきたライバルたちは当然のように予選上位に名を連ねていた。少し前までなら全く意識することもなかった順大の後輩たち、野々村笙吾とロンドン五輪帰りの加藤凌平が1、2位を占めていた。

 肩の手術があったとはいえ、彼らから大きく引き離されての67位。個人総合での決勝進出はならず、得意の跳馬だけは決勝に残ったものの、1本目の着地に失敗して膝を痛め、2本目は跳ぶこともできなかった。心身ともに打ちのめされるような散々な大会だった。

 順位とスコアの書かれた当時のリザルト表を見ながら福尾は言った。

「一緒に頑張ってきた彼らがトップにいて……申し訳ないけど知らないんですよ。僕と彼らの間にいる選手たちの名前を。でも、そういう選手たちが僕より上位にいたんです」

 それは体操選手としての福尾が、これまでいたトップレベルの世界から放り出されてしまったことを意味していた。そしておそらく、もう戻ることができないであろうことも。

失意の福尾の頭に浮かんだ「もう1つの夢」とは…?

 絶望する一方で福尾は潔くその現実を受け入れた。受け入れざるをえなかった。

「たとえば僕が20位にいたら一番厄介だったかもしれない。もう少し頑張ればまた戻れる、と考えたと思います。でも、そうじゃなかった。当時は間違いなく練習も一番してましたし、4年生で授業もそれほどなかったから、みんなが授業している間にも体育館に行ってトレーニングしていました。1年間休んでいたので追いつけはしなくても、少しでも食らいつきたい。自分でもそう言えるぐらい練習を積みました。その結果がこれだった。もうそれは受け入れるしかないですよね」

 大きな怪我に見舞われても、圧倒的な才能の差を見せつけられても、決して挫けなかった福尾にとって決定的な挫折だった。

 そして、体操選手としての夢が潰えたとき、福尾の頭の中に浮かんできたのは心の片隅に抱き続けてきたもう1つの夢のことだった。

<後編につづく>

文=雨宮圭吾

photograph by Yuki Suenaga