2022年シーズン終了後に戦力外通告を受けた元DeNA・田部隼人さん(22歳)。高卒わずか3年で戦力外、打診された育成契約を断っての“現役引退”、当時メディアに明かさなかった決断の理由……ファンの間で「謎」とされていた真相を、本人が明かした。〈全2回の1回目〉

 かつてプロ野球界ではこんな定説があった。

「高校から即プロ入りした選手は、同じ年の大卒選手たちが入ってくるまでが勝負」

 大学進学を選んだ同世代の選手がプロに進むまでの時間、つまり「4年以内」に結果を出さなければ、首筋が寒くなってくる……。そんな意味合いである。見方を変えれば、「少なくとも入団から4年までは球界にいられるのが普通」と考えられていた。

 だが、現代のプロ野球では、この定説にあてはまらない“早期退団”が増加している。2023年の選手を例に挙げると、ロッテの西川僚祐、ソフトバンク育成の早真之介らが高卒3年で、独立リーグを経て20歳でドラフト指名されたオリックスの西濱勇星はわずか1年で、球界を去った。

 今回取り上げる元プロ野球選手も、高卒わずか3年目のシーズン終了後に戦力外通告を受けた。名は田部隼人。島根の開星高時代、180センチ台中盤の大型遊撃手として評価され、19年のドラフト会議でDeNAから5位指名を受けた。

ファンも疑問だった“引退決断”「田部隼人 なぜ」

 球団からの期待値を計る数字の一つに、「二軍での打席数」がある。球団が次代の主力と期待する選手には、当然多くの実戦機会が与えられる。プロ3年目の22年イースタンリーグで、田部はチームで2番目に多い290打席を消化。自身初の一軍出場も経験した、まさに有望株、“プロスペクト”と言っていい存在だった。

 一軍の景色を見て、勝負の4年目へ――そう思われていた矢先の戦力外通告だった。まだ20歳と若く、育成契約やトライアウト挑戦の選択肢もあったが、現役引退を発表した。具体的な理由は明かされなかった。

 田部の決断を疑問に思うDeNAファンも少なくないようで、Googleで検索すると「田部隼人 なぜ」が上位に表示される。

 引退直後、複数のメディアから取材を打診されたが、「今は自分の感情を上手く伝えられない。自分の本音を隠したまま話すことで、間違った情報がファンの方や色々な方に伝わるのに抵抗があった」と、すべて断ってきた。

 あれから約1年の月日が経った今、故郷の島根県松江市で、田部と会うことができた。

一軍デビューした“高卒3年目”オフにまさか…

 その知らせは突然だった。

 2022年10月某日。「みやざきフェニックス・リーグ」の試合を終えて宿舎に戻ると、二軍の統括マネージャーに呼び出された。「来季からは支配下選手としての契約は結ばない。育成での再契約になる」。もちろん、田部も通告の可能性がゼロだと思っていたわけではない。これまでも、志半ばで球界を去る先輩たちを見ていたし、ドラフト同期で同じく高卒入団の浅田将汰も、このオフに戦力外通告を受けたことも聞いていた。

 それでも、簡単に飲み込めなかったのには、いくつか理由があった。

 まず、宮崎にいたこと。ファームの全日程終了後に行われるフェニックス・リーグは、若手選手に追加の実戦機会を与える場だ。実戦を通じて、来季に向けた課題をあぶり出す“教育リーグ”とされている。

 球団が指定した選手のみが参加するリーグであり、南国での武者修行は、事実上の契約延長を意味していた。それだけに、「フェニックスに呼ばれたのになぜ?」という感情が芽生えた。

 さらに、プロ3年目は、田部にとって大きな飛躍の年でもあった。

 2年目は打率.185に低迷。シーズン中から「何かを変えないといけない」と肉体改造に着手した。ウエイトトレーニングと食事量を増やし、21年の年末には、体重90キロにまで到達。ビルドアップに成功した。その後、「クワさん」と慕う桑原将志の自主トレに参加し、キャンプに入る前の最終調整を進めた。田部が振り返る。

「クワさんの自主トレって、かなり走るんですよ。体重を90キロまで増やした後に走り込んで、自然と87〜88キロぐらいになって。過去にないぐらい、めちゃくちゃいい状態でキャンプに入れました。キャンプが始まっても、今までにないくらいバットが強く振れて、バンバン(スタンドに)放り込める。『これはやれる』と思えました」

4年目に向けて“やるべきこと”も見えていた…

 22年シーズン開幕間もない4月6日には、初の一軍昇格をつかみ、同日の阪神戦延長10回に、代打で一軍初打席を経験した。体調不良の選手に代わっての昇格で、本人は「運もありました」と謙遜するものの、オフに肉体改造を成功させ、キャンプからシーズンインまで好調をキープしていたことが最大の要因だったのは間違いない。

 その後は、左足の故障で離脱した宮﨑敏郎に代わる形で、同月23日にも一軍登録され、翌日の広島戦で「8番・三塁手」として初のスタメン出場も経験した。

 5月以降は一軍から遠ざかったが、田部自身の中で原因は明確だった。

「自分、もともと痩せやすい体質で、3年目はシーズン途中で84〜85キロぐらいまで落ちてしまった。この2、3キロの違いが大きすぎて、イメージ通りにバットが振れなくなりました」

 愛用していた、開星高の先輩でもある梶谷隆幸(巨人)と同型のバットは、プロの世界でも長い86.5センチ。長く、ヘッドに重みを感じるように設計され、万全の体であれば飛距離を生む強力な武器になるが、痩せた体には扱いきれぬ代物だった。

 とはいえ、田部は一軍を経験した。5打席で安打を放つことはできなかったものの、翌シーズンに向けて光明も差していた。

「プロ1、2年目にファームでお世話になった(田中)浩康さんから、『タイミングの取り方はいい』と言ってもらっていました。一軍でヒットは打てなかったんですけど、タイミングが合わなかったことはなくて、そこは大きな自信になったんです。あとは、どれだけ強く振れるようになるか。もう一度体づくりを見直して、年間を通じて体重と筋力をキープする。これがクリアできたら、一軍でもやれる。自分の中では明確でした」

育成契約の打診も…納得できず

 4年目に向けて、並々ならぬ決意で宮崎に入った。フェニックス・リーグの間、チーム随一のフィジカルを誇っていた細川成也(当時DeNA)に弟子入りもしていた。

「コブ(小深田大地)と一緒に、細川さんに見ていただきました。筋トレとか、食事のこととか、朝早く起きてストレッチすることとか、本当にいろんなことを教えてもらって。フェニックス中は球場への出発が8時とか9時だったんですけど、自分とコブは5時半くらいに起きて、来シーズンを戦い抜ける体力を付けようと、ランニングやストレッチをしていました」

 来季に向けて走り出していた矢先――。それだけに、通告を簡単に飲み込めなかった。支配下を戦力外となる理由を問う田部に対し、マネージャーは言った。

「球団として、現時点では一軍に上がる実力がないと判断した」

 この年から「現役ドラフト」がスタートされたため、例年よりも保留者名簿の確定が遅れ、フェニックス・リーグ開始後というタイミングの通達になったことへの謝意と、素行などには何ら問題はなかったことも伝えられた。球団側としては田部が育成選手として残ってくれると予想しての通告だったのかもしれない。だが、本人は納得できなかった。

引退の理由「ガンっとモチベーションが…」

 この時点で、田部には3つの選択肢があった。

 1つめは、育成選手になるがDeNAに残留すること。2つめが11月に開催される「12球団合同トライアウト」に参加し、支配下契約での他球団移籍を模索すること。そして3つめは、育成契約への移行を断り、現役を引退すること。

 球団からは「回答まで1週間待つから、考えてほしい」と申し添えられた。田部が当時の心境を振り返る。

「自分としては、一軍でやれる可能性が見えてきて、そのための課題も明確になっていた。でも、球団からは来年一軍の戦力にはならない、昇格の可能性はないと判断されている。そのギャップでガンっとモチベーションが下がってしまって……」

 信頼のおける人々に自分の偽らざる思いを吐露した。実力を認め、「DeNAに残らないにしても、トライアウトは受験したほうがいい」と勧める者も少なくなかった。それでも、宮崎に乗り込んだ当初に湧き上がっていた来季への活力は戻ってこなかった。

 スポーツ界でしばしば使われる「心技体」。非常に的を射た言葉である。

 3つの要素のどれかが欠けると、アスリートは力を発揮することはできない。磨かれた技術も、鍛え抜かれたフィジカルも、心がたぎらなければ生きてこない。

 心技体の「心」が大きく削がれてしまった以上、DeNAに残留して再び支配下選手を目指す未来も、「自分のような実績のないプロ野球選手にとってはギャンブルのようなもの」というトライアウトで移籍先を勝ち取る未来も描けなかった。

 最終的に回答期限を待たず、通告から5日後に現役引退の意向を伝えた。

〈つづく〉

文=井上幸太

photograph by Sankei Shimbun