2000年代前半、オリックスが採用した契約金0円の選手たち。彼らはその後、どのような野球人生を歩んだのか。『オリックスはなぜ優勝できたのか』(光文社新書、2021年12月14日発売)より一部を抜粋してお届けします。(全3回の第1回 ※肩書、成績はすべて刊行当時)

香川の大砲キャッチャー

 2000年ドラフトは、5位から9位までが「契約金0円」の対象選手だった。

 香川・志度高の捕手・高橋浩司は、8位でオリックスから指名を受けた。

 高校通算38本塁打。3年夏の香川県大会準決勝では、優勝した丸亀高に延長10回の激闘の末、2―5で敗れ、甲子園の舞台には一度も立てなかった。

 それでも、県内では評判のスラッガーだった。準々決勝と準決勝では、先発のマウンドにも立った。二刀流の高橋には、3球団から「指名したい」という話があったという。

「一番熱心にお声がけいただいたのが、オリックスだったんです」

 関東の強豪大学からも、誘いの声が複数あった。それでも、プロへの憧れの思いがやまなかったという。

「指名していただけるのなら、前向きに考えさせていただきたい、オリックスで頑張りたい、とにかくプロ野球の世界でやりたいという思いがすごく強かったんです。小学校の頃から、その思いだけで、ずっと野球をやってきたんで」

指名前には聞かされていなかった「契約金0円」

 夢が叶った喜びに包まれていた高橋に、わずかな“影”が差したのは、ドラフト指名を受けてからのことだった。

 球団側との初の入団交渉の席上で「契約金は0円です」。

 指名前の打診では、そういった方針は一切聞かされていなかったという。

「契約どうこうよりかは、プロ野球の世界でできるという思いの方が強かったんです」

 意欲に満ちた18歳。提示された条件は、年俸480万円、支度金100万円。

契約金0円は「プライドがあって周囲に言いづらかった」

 そして、契約金0円に代わる「インセンティブ」は2000万円だった。

 10日間、一軍登録されれば1000万円。以後、10日ごとに100万円ずつ上積みされて、満額だと2000万円という出来高制度になる。

 高校卒のルーキーでも、ファームで結果を出し、有望株と認められれば、1年目からシーズン終盤、順位が確定した後の消化試合に、お試しの形で一軍昇格できるケースもある。

 そうすると「10日間」というのは、簡単ではないが、無理めのハードルでもない。それでも「0円」での入団は、多感な若者には酷なものがある。

「契約金って、なんぼ? いっぱいもらってるんやろ? って言われるんです。いや、俺、ゼロなんやって、当時は若かったというのもあるんですけど、プライドもあったんで、やっぱり言いづらかった面もありますね」

同じ高卒捕手と推定6500万円の差

 日本で「育成選手制度」が正式採用されたのは、2005年(平成17年)のドラフトからだった。育成入団だと契約金はなく、支度金の上限が300万円程度。しかし、れっきとした「システム」がある。チャンスにかけて育成で入った。周りもそう見てくれる。

 ところが、当時はその制度がない。だから、契約金0円という概念もない。

 その年のドラフト3位は上村和裕(現オリックススカウト)だった。

 北海道・北照高出身の捕手で、甲子園にも出場。同じ高校生で同じ捕手だ。

 しかし、実績から来る期待値の差は、契約金と順位の違いとなって表れる。それが、プロ野球という実力の世界での掟だ。

 上村は、契約金6500万円(推定)でプロ入りした。

あいつは3位、お前は8位やから

 初期投資に6500万円をかけた商品と、0円で手に入れた商品に、どちらに多大な期待をかけるかと問われた時の答えは、明快だろう。

 0円の自分の存在の“軽さ”を、高橋は入団直後から知ってしまった。

「同学年の上村君は、どんどん試合に出してもらえる。なんでしょう、やっぱり、お金がかかっているからですよね。もちろん僕が逆の立場でも、たぶん、使いたくなると思うんです。そういうのもありましたし、上村君のポテンシャルも高かった。どこかで認めたくない部分、負けたくない部分もあったんで、難しかったです。
 もう、扱いの差はすごかったです。先輩からも言われたりしますからね。あいつは3位、お前は8位やから、って。僕の中では、すごく悔しかったですし、でもやっぱり結果を残さないといけない世界だなというのはあったんで……。しんどかったです」

 実戦経験を積み重ね、その中で自分の実力を測り、課題を見つけていく。そうしないと、野球選手は成長できない。

 そのチャンスを与えるために、ソフトバンクも巨人も「3軍制」を採用した。ソフトバンクは、3軍単体で年間80試合前後を組んでいる。

 しかし、高橋がプロに入ったその時代には、そうしたコンセプトも前例もない。

二軍監督も毎年のように交代した2000年代前半

 二軍の試合に出たければ、結果を出して、チャンスをつかめ。それが競争社会の原理でもある。しかし、その与えられる機会が決して平等ではないのも、またプロ野球の現実だ。

 ドラフト上位指名の有望株、さらには一軍予備軍、ベテランの調整の場としても、ファームの試合への出場機会が優先的に与えられる。

 それは、実績や実力、期待度に応じた“傾斜配分”でもある。

 その狭間で、高橋も使ってもらえることはある。しかし、1年目はわずか18試合。2年目も36試合。これでは、結果を出せと言われても、その機会すら少な過ぎる。

 しかも、当時のオリックスは低迷期の真っ只中。高橋がオリックスに在籍した2001年からの4年間で、一軍の監督は4人も入れ替わった。

 上の方針が変わると、二軍監督も代わる。高橋の在籍4年間で二軍監督も4人。

「上も代わるから下も代わって、ぐるぐる回って……。ホント、めちゃくちゃでしたね」

 指導方針が一貫しない。チャンスは少ない。結果が出ない。

 その悪循環の中で、高橋はもがき続けていた。

球界再編騒動で給料が天引き

 一軍に上がるチャンスがないまま、高橋は4年目のシーズンを迎えていた。

 2004年、球界再編騒動という嵐が吹き荒れた。

「4年間で、戦力外になる可能性があった中で、僕には関係ないかなという思いもありました。他人事じゃないですけど、合併とか、どれくらい重要なことかっていうのが把握できていないという部分もありました」

 合併すれば、単純に選手は半分になる。ならば、自分はクビになるかもしれない。

 その恐れの方が先に立つ。

 9月18、19の両日、ストライキ2試合。その分、給料が引かれた。それは、経営者と労働者の闘いにおいて、まさに自らも血を流して、要求を貫徹するためである。

 高橋も、同じ選手会の一員だ。前月から6万円減だった。何千万、何億円ともらっているプレーヤーではない。

「どうしようかと思いました。どうやって生きようかと。えげつなく引かれるんです。これ、大丈夫なのかな、と」

 12球団維持。ファンの思い。ビジネスの観点。

 そうした「大枠の物語」の陰で、先が見えない霧の中に包まれた、若き一人の野球選手がいたことを、忘れてはいけない。

うまくいけば、後々も獲っていますもんね

「育成は、育てるという感じじゃないですか。でもなんか、契約金0円選手って、全く違う感じですよね。高校生で0円って、僕しかいなかったですよね。ふと考えた時、高校生一人やったんやな、と。うまくいけば、後々も獲っていますもんね」

 2021年、大阪・舞洲(まいしま)に練習拠点を移しての5年目。

 オリックスは、2月のキャンプインの時点で、背番号3桁の育成選手が20人を数えていた。育成試合を組み、結果を出せば二軍に抜擢され、支配下に上がる可能性もある。

 そうした「システム」がある今と、高橋の時代との違いは顕著だ。

 それでも「契約金0円」の中で、一瞬とはいえ、輝きを放ったプレーヤーがいた。

 <つづく>

文=喜瀬雅則

photograph by JIJI PRESS