「オレ、おばあちゃん子なんですよ」

 澤村拓一投手は、そう言って遠くを見つめた。

 父方の祖母とは小学校の時まで一緒に住んでいた。共働きだった両親の代わりに姉と二人の面倒を見てくれた。幼稚園ではバスの停留所までの送り迎えはいつもおばあちゃんが来てくれた。小学校になってからも授業が終わって家に帰るといつもおばあちゃんが待ってくれていた。「おかえり」と優しい笑顔で声をかけてくれる。そして100円のお小遣いをもらう。100円玉を握りしめ、駄菓子屋に走り、好きなお菓子を買って食べる。そんな時間が大好きだった。

優しかった祖母

「おばあちゃんは小さい自分が寂しいと感じないように色々と気を遣ってくれたのだと思います。小さい頃は親とではなく、いつも、おばあちゃんと一緒に寝ていました。おばあちゃんの隣で一緒の布団で寝ていた記憶があります。本当に優しかった」

 添い寝をしてくれたことともう一つ、よく覚えているのは、花が好きだったことだ。春になると自宅の庭には、おばあちゃんが大切に育てた花がいつも綺麗に咲いていた。優しく丁寧に花の手入れをしている光景は今も鮮明に目に焼き付いている。 

 そんな祖母との別れは4月17日の朝に訪れた。本拠地ZOZOマリンスタジアムでのライオンズとのナイターに備えて自宅を出発しようとしたとき、突然、電話が鳴った。

別れの時

 普段は連絡をしてくることのない父からだった。

「年に数回しか電話をしてこないオヤジから、このタイミングでの電話ですからね」

 悪い予感がした。電話に出ると大好きだった祖母が亡くなったことを告げられた。94歳で別れの時を迎えた。

 最近は体力も落ちており要介護だったことから施設暮らしを続けていた。だから澤村は出来る限り、一緒の時間を過ごそうと時間が空けば、地元の栃木に向かう日々を送っていた。体力面を考慮して一日で面会できるのは10分以内程度。それでも今年に入って8回以上、顔を出した。

「愛しているよ。おばあちゃん」

 自主トレ期間中の1月も、春季キャンプから帰った時も、オープン戦の合間も、時間が空けば栃木にいた。ほとんど会話は出来ない状態だったが、ベッドに横になっている祖母の耳元で言葉をかけた。

「愛しているよ。おばあちゃん」

 その細い手を握り、何度も何度も優しく言葉を重ねた。きっと声が届いていると信じて片道2時間ほどかけて車のハンドルを握り、面会してすぐにトンボ返りする。そんな日々を繰り返した。

「それは自分の中で決めた事だったので。体調が悪くなっていると聞いてからそう決めた。ただ、そこからどんなに会っても、時間があったとしても悔いは残りますよ。どうしても、やっぱり残る」と澤村は言う。

 もっともっと会ってあげたかった。一緒の時間を過ごしたかった。それは祖母が天国に旅立ったと聞かされた時に最初に沸き上がった想いだった。そして「おばあちゃんは立派だったと思う」と在りし日の祖母を偲んだ。

「何があってもマウンドに」

 父から訃報が届いた時、まだ練習開始までは時間があった。休むことも出来たはずだ。ただ、その選択肢は澤村の頭にはまったくなかった。

「それはおばあちゃんも望んでいないはずだと思った。仕事を放棄することは出来ない」

 ジャイアンツ時代、シーズン真っただ中に母方の祖母が亡くなった時も、両親はあえてその事実を数日、伏せ、オフの前日である日曜日のデーゲームが終わってから報告をくれた。「何があってもマウンドに立ち続ける。それが澤村家のルール」

 澤村は決意を込めた強い口調で話した。

 この日も毅然とマウンドに立った。出番は8回に訪れた。そこまで1点のリードを守り、好投を続けていた先発の西野勇士投手が8回2死一、三塁のピンチを作ると名前をコールされた。ストレート2球でカウント1―1とし、渾身のスプリットでサードゴロに抑えた。マウンドで雄叫びを上げた。そしてベンチに戻る途中だった。一塁側の白線をまたいだところで、ほんの少しだけ立ち止まり、空を見上げた。半月の光がグラウンドを照らしていた。

お立ち台で切り出した言葉

  試合の流れはこの場面で決した。結果的に2−0で勝利。お立ち台に導かれた澤村は「とにかく集中していました。(西野)勇士が頑張っていたんでよかったです」といつも通り、なにもなかったかのように振る舞い、冷静に口にした。

「今、(スタンドに)大声出している人がいますけど、そういう声が聞こえるぐらい余裕があったのでよかったです」と冗談を言ってスタンドを笑わせる場面もあった。ただ最後にメッセージを求められると、少し間をおいて自ら切り出した。

「私事になるのですけども今朝、祖母が亡くなりました。今、皆様の隣にいてくれる人の存在というのは当たり前じゃない。自分にとっての大切な人を大切にして欲しいなあと思います」

「もっと自分の大切な人のために」

 愛する祖母への想いと同時に、今の澤村が感じている率直な気持ちを多くの人へのメッセージとして届けた。スタンドには若者の姿も多く見られた。最愛の人が亡くなった日だったからこそ自分の胸に湧き上がっていた想いが素直な言葉となって口から出た。色々な人に知ってもらいたい、伝えたい大事なメッセージだった。

「今の世の中って、SNSで人の事を誹謗中傷したり、あげ足をとったり、なんかギスギスしたものがあるじゃないですか。オレは思うんです。そういうエネルギーをもっと自分の大切な人のために使って欲しい。もしくは自分の事を大切にしてくれている人に喜んでもらうために使って欲しい。

今って、なんか、そういう大事な事が忘れがちになっているような気がする。ちょっと立ち止まって大事な人は誰か? 大事にしてくれている人は誰か? そしてその人との時間をちゃんと作って大事にしているかどうかを思い返してくれたらなあ、と。ヒーローインタビューではそんな想いが自然と浮かび上がって、言葉となって出ました」

マリンに流れた“特別な時間”

 野球ファンに、そしてこの言葉を口にして報道されることで多くの人の目に留まることを願った。いつも優しく接してくれる最愛の人を大事にするという気持ちを、ちょっとでも思い返すキッカケになれば。それはなんとも澤村らしい行動だった。スタンドは一瞬、静寂に包まれた。それぞれが背番号「11」の心のメッセージを受け取り、脳裏に最愛の人を思い描いているように見えた。ZOZOマリンスタジアムに今まで感じたことがないような特別な時間が流れた。澤村の目は潤んでいるように見えた。 

「時間がないという人がいるかもしれませんけど、オレは時間というのは作るものだと思っている。大好きな人との時間はちゃんと作るべきだと思う」

 試合後、帰路につく澤村はロッカールームを出ると廊下を歩きながら、静かに口にした。思えば大学時代は年末年始しか実家には戻らなかった。時間を惜しんでトレーニングに明け暮れた。しかし、幼い頃からいつも寄り添ってくれた最愛の祖母が旅立った今、不意に後悔の念にかられる。 

棺に入れたユニホーム

「あの時のオレはそれが一番の恩返しだと思っていた。でも今はもう少し、時間を見つけて元気な時におばあちゃんとの時間を作ってあげるべきだったと思います。一緒に沢山、写真も撮りたかった。亡くなった今だからなおさら感じる」

 澤村は36歳になった今でも大好きだった祖母と一緒に寝ていた時の安心感を忘れない。優しさとぬくもりが身体に残っている。大事に優しく見守りながら育ててくれた愛があったから今がある。感謝は尽きない。棺には自身のユニホームを添え、葬儀会場にはおばあちゃんが大好きだった花を沢山、並べた。

 後日、澤村はふと口にした。

「最後、どんな場面が脳裏を過ったんですかね。誰の顔なのだろう? 父かな。もしかしたらオレかな。幸せな思い出かな」

 答えはもちろん誰にもわからない。それでも澤村はずっとそのことを真剣に考え込んでいた。そこには、おばあちゃんの事を誰よりも愛していた孫の姿があった。

愛そのものだった祖母の言葉

 悲しみを胸に、大好きなおばあちゃんとの色々な思い出を大事にしながらこれからも澤村は大観衆が見守るマウンドに立つ。この場所で最高のパフォーマンスを見せ、ファンを喜ばせる。夢を提供する。メッセージを伝える。それは彼が全うしなければいけない責任ある仕事であり今、出来る事。涙を我慢しながら、時には歯を食いしばりながらも前へ、前へと力強く進む。

 ただ、それでも、やっぱり、このプロ野球のグラウンドという修羅場のような仕事場にいながらも、ふと優しかったおばあちゃんの事を思い出すことがある。

 振り返るとプロ野球選手になっても「頑張ってね」と言われたことは一度もなかった。いつも気遣うように「身体は大丈夫かい?」と心配そうに声をかけてくれた。それはおばあちゃんの孫を想う心。愛そのものだったと、今だからこそわかる。

文=梶原紀章(千葉ロッテ広報)

photograph by Chiba Lotte Marines