2023ー24年の期間内(対象:2023年12月〜2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。女子陸上部門の第3位は、こちら!(初公開日 2024年1月10日/肩書などはすべて当時)。

2023年10月、中国・杭州で開催されたアジア大会の女子100mハードルで、銅メダルを獲得した田中佑美(25歳)。最初のスタートでは優勝候補の中国代表・呉艶妮(ウー・ヤニ)が明らかなフライングを犯すも、共に失格を言い渡された選手との猛抗議により一転、再出走が認められる異例の事態に。最終的に、2着だった呉が失格となり、4着の田中が繰り上げで銅メダルを手にした。

この不正スタートを巡るドタバタ劇には様々な声が上がったが、レースを共にした田中はどう受け止めているのだろうか。繰り上げで銅メダルが決まったときの心境や、今回の対応に対する率直な思い、レース後の呉との意外なやり取りなど、知られざる舞台裏について聞いた。《NumberWebインタビュー全3回の初回/#2、#3に続く》

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 女子100mハードルの決勝。ライトに照らされたトラックに立つ田中の表情は、緊張感より、これから始まるレースへの期待で和らいでいた。

「どの大会でも予選や準決勝は『通るかな』という不安が先に来るのですが、決勝に関しては楽しもうという気持ちが前面に出ていました。特にアジア大会は、プロジェクションマッピングとかで『自分かっこいい!』と気持ちを盛り上げてくれる雰囲気だったので、その流れに乗ってワクワクした気持ちでスタートラインに立っていました」

話題を集めた「フライング→まさかの再スタート」

 アクシデントが起きたのはその直後。優勝候補筆頭だった呉艶妮(中国)が、明らかなフライングを犯したのだ。号砲が鳴る前に動いた呉と、それにつられたジョティ・ヤラジ(インド)に対して、共に不正スタートによる失格が宣告された。

 しかし、ヤラジが審判に抗議を始めると、フライング直後は自身の非を認めるように、観客にお詫びする仕草を見せていた呉もその抗議に加わった。長時間の猛抗議の末、ふたりとも不正スタートが取り消されて再スタートすることになる。

 呉は今季大ブレイクした期待の新人。6月の中国の全国選手権で優勝を飾り、アジア大会の出場権を獲得。続く8月のFISUワールドユニバーシティゲームズで銀メダルを獲得し、12秒76の自己記録でパリ五輪代表の座を射止めた。そのルックスや派手なパフォーマンスも話題となり、中国では“ハードルの女神”と呼ばれる。

現場にいた田中は、騒動をどう感じていたのか?

 開催国で絶大な人気を誇る呉を走らせるという異例の判断に、レースを見守る観衆の間に動揺が走ったが、田中はその場を冷静に俯瞰していた。

「彼女たちが走ろうが走るまいが、私個人のレースにはある意味、関係のないことなので『大変そうやなあ』という気持ちだけでした。あそこまで待たされることはなかなかありませんが、国内でもフライングや注意はよくあることなので、それと同じように対応しようと、次のスタートに向けて集中を高めていたと思います」

 そう落ち着いて判断できたのは、彼女自身、高校時代に出場したアジアジュニア選手権で、一度は失格を言い渡されるも、再出走が叶い、結局失格になった経験があったからだろう。

「私の場合は、フライングしたという認識があまりなくて、音が聞こえたと思って出たんです。でも、当時は高校生だったので抗議するということも頭にはなくて、ちょっと戸惑いながら、すぐに退場したんですね。でも、係員の方に『やっぱり走っていい』と呼び止められて、結局走ったら1着だったんです。国旗を掲げて会場を練り歩いて、ドーピング検査まで受けて、それで日本チームのところに戻ったら『失格』と告げられました。

 今回のレースで言えば、最初のスタートをした後に、スクリーンに動画が流れますよね。確かにこれはフライングだなと思いましたが、そこからゴタゴタしている中で、とりあえず一本走らせるというのは選択肢としてありなんじゃないかとも思っていたんです」

繰り上げメダルへの複雑な本音

 仕切り直しのレースは、中国の林雨薇(リン・ユーウェイ)が12秒74で優勝し、呉が2着、ヤラジが3着、田中は13秒04の4番目でゴールした。だが結局、呉は不正スタートで失格に。2位以下が繰り上がり、田中は銅メダルを手にしたのだ。

 田中は「思わぬプレゼント感がありました」と微笑む半面、「自分の実力は純粋に4番だった」と繰り上げメダルに対する複雑な思いも明かす。

「自分の実力ははっきり4番だということが証明された後に、3番に繰り上げられたので……アスリートとしてはやっぱり記録、順位として走って負けたのが悔しいという思い半分と、来年を見据えた計画としては、ポイントを上積みできてよかったという気持ちもありました。ただ、走って4番だった事実は、メダルがあっても無くても変わらないというか……走って3番以内に入りたかったという気持ちのほうが強かったですね」

「呉選手を責め立てるような雰囲気はなかったです」

 このフライングを巡る前代未聞のドタバタ劇に一番翻弄されたのは、決勝を走った選手たちだろう。だが、レースを終えた選手たちの間に苛立ちや陰りはなく、むしろ温かい空気が流れていたことに、田中は感銘を受けたようだ。

「待機場所に戻って荷物を受け取ってから、パソコン画面に正式結果が映し出されるのをみんなで見に行ったんです。私の名前が3番に入った公式結果が出たら、周りの選手たちもワーッと喜んでくれて。すごくいい空気だなと思いました。

 その後、呉選手はヤラジ選手に『来年はまた私強くなるから』みたいなことを話していて、私とも色々喋ってくれました。彼女は英語があまり得意ではないそうで『私英語喋れないの、秘密よ』ってすごく可愛らしい感じで伝えてくれて(笑)。呉選手本人が当たり散らしたり、沈んでいたりしたら、周りも困ったでしょうけど、本人がカラッとしているので、そこまで責め立てるような雰囲気はなかったですね」

 世間では、呉が明らかなフライングを犯したにも関わらず、ヤラジの抗議に相乗りした行動に対して、懐疑的な意見も多くあがっていた。田中自身は、いちアスリートとして、あの抗議をどのように受け止めていたのだろうか。

「レース前はあえて細かく見ないようにしていたので何とも感じませんでしたが、確かに難しいところではあるなと思います。彼女は本当に人気のある選手で、背負っていたものも大きかったのではないでしょうか。初めは素直に認めて退場しようとしたけれど、一縷の望みがあるならと、抗議に乗っかった気持ちも分からないことはない。

 それで記録が認められたならスポーツとしてフェアではないですが、結局失格になっているので、彼女の気持ちも、一緒に走ったメンバーとしては汲めるなと思います」

田中が触れた呉の“チャーミングな素顔”

 そう呉の気持ちを慮るのも、同じ舞台で戦った同志であり、彼女の人柄に触れたからだろう。選手村の食堂ではこんな一幕もあったという。

「呉選手は親御さんらしき方と一緒にいて、私は混成競技の選手たちとご飯を食べていたんです。その子たちは『可愛いから一緒に写真撮りたい!』とはしゃいでて(笑)。彼女はどんよりした様子だったので、それで話しかけるのもどうなんだろうと躊躇したのですが、『本当にごめんね、この子たちが写真撮りたいって』と思い切って声をかけたんです。

 彼女はしょんぼりしながらも『もちろんよ』って快く応じてくれて。喜怒哀楽が豊かでいい子なんだなと思いましたし、チャーミングな人柄だからこそ、中国でも愛されているんだろうなって感じました」

 実は田中はレース前、中国メディアで「呉のライバルになり得る存在」としてクローズアップされていたという。本人は知らなかったようだが、「だからなんですね」と笑いながらこう言った。

「実は予選が終わってから、一度だけ中国メディアの取材を受けたんです。記者の方から『中国のお気に入りの食べ物は?』とか聞かれて(笑)。私は『白い丸いやつ。あんこが入ってたらなお良しです』って答えました」

今回の騒動で感じた「海外選手の自己表現」

 田中は実直に言葉を紡ぎながらも、時にお茶目な一面ものぞかせる。それが彼女の魅力だろう。アジア大会は、中国勢のふたりに対する期待をひしと感じたことで、アスリートとしてのメンタリティを考え直すきっかけになったという。

「彼女たちは世界陸上をおいても何よりこの大会に合わせてきたなというのはすごく感じました。ある意味、世界大会よりプレッシャーがかかる場面でも力を発揮できるのは彼女たちの強みだし、注目されることをエネルギーに変えて、あの明るさを保っているので、それは目指すべきところだなと思います。

 私自身は人の目を気にするタイプで、どちらかと言うと守りに入ってしまう性格ですが、海外の選手たちはもっとパワフルに自分を表現しています。実業団選手として会社に所属しているので、もちろん会社員としての価値観を大事にしつつ、アスリートとしてのクレイジーな人柄も確立させて、それを上手く使い分けていきたいですね」

《異例のハプニングに巻き込まれるも、冷静な走りを貫き、アジア大会銅メダルに輝いた田中。第2回では、そんな彼女の人柄を感じさせる、幼少期のエピソードを深掘りする。宝塚のトップスターを目指したバレエ少女は、なぜ100mハードルの舞台に舞い降りたのか。次回につづく》

文=荘司結有

photograph by AFLO