高校野球の常識を覆す決断に、誰もが驚いた。それでも、佐々木麟太郎には明確な人生設計がある。花巻東高の卒業式の前日、最後の制服姿で目の前に広がる可能性について語った。
【初出:発売中のNumber1094・1095号[スタンフォード大進学の決意]佐々木麟太郎「今、進むべき道だった」より】

花巻東高の卒業式前日に語った言葉

「これ、デカいですよ。採寸して、ちょっとゆとりを持って作ってもらったので。サイズ的には……5Lぐらいだと思います」

 目尻を下げてクスッと笑う。そして、身長184cm、体重113kgの肉体を包み込んでいる高校の制服に優しく視線を落とす。彼が昨夏の甲子園よりもずいぶんと締まった顔でそう語ったのは、花巻東高の卒業式前日のことだ。ふとした時に素顔を見せてくれる佐々木麟太郎は、昂る胸の内をちょっとだけ覗かせ、それでいて冷静に、これから過ごすアメリカでの日々を想像して言うのだ。

「楽しみですね。失敗するのも楽しみ。失敗に対しての恐れはないですし、失敗から学ぶべきものもある。すべてがプラスになればいいと思っています」

 カリフォルニア州に本部を置く名門・スタンフォード大学へ進む。年間約5万8000ドル(約870万円)とも言われている同大学の学費、そして寮費なども含めた総費用が全額免除されるフルスカラーシップでの入学は、大きな話題を呼んだ。野球ではカレッジ・ワールドシリーズに何度となく出場して、これまでメジャーリーガーも輩出している同大学は、優秀な学生が受験して、合格率がわずか3%台と言われる世界最高峰の大学として知られる。ノーベル賞にチューリング賞の受賞者は数知れず。アメリカ合衆国大統領も輩出した極めて教育指標が高い大学への進学に、世間では懐疑的な声も聞こえる。

「勉学は大丈夫か?」

「成功するのか?」

 批判めいた言葉を並べ立てられる現実を、麟太郎自身はどう受け止めているのか。

「いろんな声はありますけど、自分はとにかく挑戦するしかないので。失敗することがほとんどだと思いますけど、それを成功にどんどんと変えて、自分の質を高めていければいいと思っています。将来的には僕のようにアメリカへ渡る人もいるかもしれない。失敗も含めた僕の経験と歩みが、そういう人たちの助けになればいいとも思っているんです。失敗大歓迎。それぐらいの心意気で行きたいな、と」

野球とセカンドキャリア、総合的に考えて判断

 日本国内の大学進学やドラフト指名によるNPB入り、そしてMLBへの挑戦と、進路の選択肢はいくつかあった。ただ、フラットな思考で、進むべき道、または自らを高められる環境はどこかと考えた時、麟太郎の大きな希望となっていったのがアメリカの大学だった。その選択肢を真剣に考え始めたのは、昨夏の甲子園大会を終えてからだ。9月に単身で渡米。麟太郎側にアプローチがあった5つの大学を視察して、その環境や歴史、そしてアメリカの文化に触れたことで、思考の幅が速度を上げて広がった。今年1月11日から10日間ほどは、花巻東高野球部の監督であり父親でもある佐々木洋とともに再びアメリカの地を訪れ、予め絞っていた4つの大学を巡って自身の思いを再確認した。

「練習施設にサポート体制など、どの大学も環境は充実していました。最後は1つに絞らなきゃいけないので、最終的には自身の意思でスタンフォード大学に決めさせていただきました」

 麟太郎は「長期的な人生観」という言葉をよく口にする。

「野球選手としては、まだまだ未熟な部分が多い。フィジカルも技術も、ここからさらに高めていかなきゃいけないと思っているし、その足りない部分を身につけていく上で、僕にとっては向こう(アメリカ)の大学の環境がマッチしていると思いました。あと、野球が終わった後の人生ですね。セカンドキャリアについては、すごく考えていた。医療やトレーニングが進化する今、野球における選手生命は確実に延びていて、50歳ぐらいまでは現役としてプレーできる時代だと思っています。

 ただ、日本人の平均寿命自体が延び、『人生100年時代』と言われている中で、やっぱり現役を終えてからの人生も長い。野球人生だけで考えたら、いろんな選択肢はあったかもしれませんが、野球とセカンドキャリア、その総合的な人生を考えて、歩む道を選ばなきゃいけないという思いはありました。野球ではさらに上を目指せる。勉強でも自分のやりたいことを見つけて、その分野を伸ばせる。僕にとって両方の環境が一番充実していると思ったのがアメリカの大学であって、最終的に選んだスタンフォード大学が、自分にとって『今、進むべき道』『一番行きたい場所』だと思って決断しました」

渡米直前に「勝海舟記念館」を訪れた理由

 1月中旬、2度目の渡米前日に麟太郎が訪れた場所がある。

 東京の大田区にある「勝海舟記念館」。幕末から明治維新へと激動する日本で大きな役割を担った幕臣の館だ。革新的な思考の持ち主だった勝海舟の幼名は「麟太郎」だった。

「いい名前をいただいたと思っています。勝海舟さんは日本の未来のためにアメリカへ渡り、そこで触れた考え方などを持ち帰った方ですよね。新たな道を切り開いたその歩みや歴史を改めてこの目で確かめてみて、感じるものがありました。自身の名前の由来と意味を噛みしめた一日でした」

 麟太郎という名前について、名付けてくれた父親と話すことがあるそうだ。

文=佐々木亨

photograph by Naoki Muramatsu/Hideki Sugiyama