1999年5月7日、ヤンキースタジアム。メジャーで初めて日本人投手が先発で投げ合った日――。当時、現地で取材した記者が綴る「伊良部秀輝vs.マック鈴木」伝説的試合の舞台裏。〈全2回の1回目〉

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「絶対に負けるなとは言わない。ただ底力を見せてほしい」

 ヤンキースのドン・ジマー監督代行が試合前、その日先発する伊良部秀輝に発破をかけた。

日本人先発「史上初の投げ合い」

 1999年5月7日、ヤンキースタジアム。相手の先発はマリナーズのマック鈴木だった。日本人2人が先発投手としてメジャーで初めて投げ合うという歴史的な出来事が、メジャーの聖地と呼ばれる球場で繰り広げられようとしていた。

 野茂英雄がパイオニアとして1995年に海を渡り日本人選手が次々とその後を追うようになってから、日本人対決が幾度となく繰り広げられ、さまざまなドラマを生んできた。伊良部対マックの前には1997年6月18日に野茂と長谷川滋利、同年8月20日には伊良部と長谷川が対戦しているが、事前に登板が予告される先発同士の投げ合いは、そのマッチアップにストーリー性があればあるほど、事前の盛り上がりが大きくなる。日本人先発の初対決は日本だけでなく米国でもやはり、試合前から話題になっていた。

「先発投手はオールジャパン」

 その日の地元紙ニューヨーク・ポストには、そんな見出しが躍った。

追い詰められていた伊良部30歳

 伊良部とマックは当時、同じ日本人投手とはいってもまるで立場が違っていた。日本のノーラン・ライアンと呼ばれ97年に鳴り物入りでヤンキースに入団した伊良部は、メジャー3年目の99年は苦しいシーズンを送っていた。スプリングトレーニングから調子が上がらず、最後のオープン戦登板で2試合続けて一塁カバーに入るのを怠るという失態をおかし、当時の名物オーナーだった故ジョージ・スタインブレナー氏に「太ったヒキガエル」と罵倒され騒動になった。

 いよいよ開幕という時には先発ローテから外されシーズン最初の4試合はリリーフとして登板したが、1死しか奪えず5失点する試合もあるなど、崩れるときは派手に崩れた。5月にはエースのロジャー・クレメンスが太もも裏の肉離れで離脱したため穴埋めとして先発ローテに入るチャンスをもらったが、シーズン最初の先発となった5月2日の敵地でのロイヤルズ戦で3被弾を含む11安打6失点(自責点5)と打たれ4回1/3で降板していた。

 次の登板は、なんとしても結果を出さなければならない。

 そんな状況でマウンドに上がったシーズン2度目の先発が、マックとの投げ合いだった。もし再び打たれればマイナー落ちの危機もあり得るほど、追い詰められた状況だった。

「プロ野球選手を辞めて別の仕事を探せ」

「今日の登板がどうなるのか、私にもわからない。厳しい状況に耐えられないなら、プロ野球選手を辞めて別の仕事を探せとしか言えない」

 ジマー監督代行は、そんなことまで口にした。当時の監督だったジョー・トーリが前立腺がんの治療のため離脱している間にベンチコーチから監督代行になっていたジマーは、1966年に東映フライヤーズでプレーした経験があったが、日本つながりで伊良部に対して好意的だったかといえばそうではなく、むしろ突き放すような厳しさがあった。

 もう後がない伊良部に対して、マックはどうか。

マイナー用具係から…マック鈴木とは

 10代半ばで海を渡り、マイナー球団で雑用係からスタートするという真に“ゼロからの出発”といえたアメリカ挑戦。93年に野茂よりも先にマリナーズとマイナー契約を結んだが、メジャーまでの道のりは遠く険しいものだった。

 マリナーズ傘下でプレーした1年目は肩を壊して投げられなくなり、2年目の95年はリハビリのため主にルーキーリーグとA級で登板した。この年にはメジャー初昇格を果たしたが登板機会がないまま即降格。3年目の96年はAA級からマイナーの最上級であるAAA級に昇格し、さらに7月には念願の2度目のメジャー昇格を果たしたが、デビューとなった7月7日のレンジャーズ戦は6回から2番手で登板し最初の打者から空振り三振を奪ったものの、続投した7回に三塁打を浴び、敬遠と四球で満塁としたところで降板。継投した投手が打たれたため1回1/3を2安打2四球で3失点という結果に終わった。同年にメジャーで登板したのはこの1試合だけで、すぐにマイナーに逆戻りとなり、翌97年は一度もメジャー昇格のチャンスが与えられなかった。

 ようやく再昇格したのはメジャーデビューから2年後の98年、選手登録枠が拡大する9月になってようやくだった。このときはメジャーで初めて先発として起用され、3度目の先発となった9月14日のツインズ戦で7回途中まで5安打3失点(自責点2)、8奪三振の好投でメジャー初勝利。昇格後の1カ月間で6試合に登板し1勝2敗、防御率7.18と苦戦はしたが、6試合中5試合で先発に起用されローテの一員となったことは、マックにとってはステップアップだった。

 そしてマリナーズ入団から6年目の99年、遂にメジャーに定着するチャンスが巡ってきた。開幕当初はリリーフとして起用されたが、5月から先発ローテ入り。奇しくもヤンキースタジアムでの伊良部との投げ合いは、マックにとってもそのシーズン2度目の先発マウンドだった。

「苦労人」マック鈴木の雰囲気

 マイナーから長く下積みを経験し這い上がってきた選手と、日本のプロ野球で活躍してから鳴り物入りでメジャーに移籍した選手。同じ日本人選手でもやはり雰囲気は違っていた。わずかな給料しかもらえず言葉も通じないマイナー暮らしの中で、他の米国人や中南米出身選手に混じってたった一人でやっていかなければならない環境というのは、相当なタフさが必要であることは容易に想像がつく。

 2001年のキャンプ中、当時ロイヤルズに移籍していたマックを取材時、こんなことを言っていた。

「マイナーはしんどいこともあるけど、野球だけでなく、楽しいこともたくさんある。(日本人も)他の国みたいに、もっと10代からこっちに来てやれるようになればと思う。僕は英語も覚えたし、アメリカ人の友だちもできた」

 マイナーで下積みを経験したことが良かったと言えるそのメンタルは、間違いなくたくましかった。

試合前、緊迫の空気

 メジャーデビューから3年が経つもののまだ経験が浅くルーキーの身分だったマックは、初の日本人先発対決のときはまだ23歳。いよいよこれからという希望に満ち溢れ、与えられたチャンスを何とかものにしようと狙うハングリーな若手だった。

 一方の伊良部は30歳になっていたが、同じくメジャーデビューから3年目。大きな期待を背負って始まったメジャーでのキャリアが順風満帆とはいかず、失いつつある信頼を取り戻すべくもがいていた。立場は違うが、それぞれに野球人生がかかった大事な一戦。歴史的な投げ合いは、互いのそんな事情も絡み合い、試合前から緊迫した空気に包まれていた。

〈続く〉

文=水次祥子

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