世の中は毎日あらゆることに選択を求めてくるし、誰もが常に正しい選択をしようともがいているけど、残念ながら大抵のことに正解はなくて、なにを選択したとしても結果はとらえ方次第なところがある。絶対に自分が正しくて相手が間違っていると思っていても、大体は相手も同じように思っているものだ。

学校に通っていた頃は皆同じ制服を着て、髪型も男子は耳にかかってはいけないとかルールに縛られ、メイクもヘアワックスも禁止。先生の指示によく従い、集団を乱さないような人こそが素晴らしいという教育を受けるのに、一歩社会に出た瞬間に「常識にとらわれない人材!」だとか「個性光る!」みたいなフレーズを浴びせられ、「清潔感こそ正義!」と言わんばかりにメイクにヘアスタイリングにファッションのセンスが求められる。今まで学校で言われたことは何だったんだ。学校教育を真に受けて信じていた人の方が「ダサくて平凡なやつ」扱い。

そんな時に思い切って自分なりの個性を開花させると、今度は「人として非常識だ!」とか「ビジネスマナーがなってない!」といった批判的な言葉が飛んでくるのだから理不尽なものだ。結局、個性的な人はその個性を評価される一方でたたかれるし、真面目な人もしかりだ。自分がどんな人間になる選択をしても、誰かにとって正解であり、不正解なのだ。

先日ゲイの友人に「2人好きな人がいて、同時並行で恋愛をしてるんだけど、ヤバいかな?」と相談された。もちろんいわゆる一般常識として二股は良くないと思うし、相手の時間を無駄にするのだからどちらかを選ぶべきだとは思うが、その常識的な正解が相談した彼や、彼が二股をしている相手に対しても同じように正解なのかは分からない。

もしかしたらその人は「2人好きな人がいるけど、本命はあなたじゃないんだ」とフラれるくらいなら「知りたくなかった!」と考えるかもしれない。時間の無駄だと言う人もいるけど、むしろ「どちらか1人を好きになるようにがんばるからもっと時間をください!」と思うかもしれない。

そもそも若い彼らにとって今つき合っている人と一生を添い遂げる確率なんて高くないわけで、どうせ30年後に一緒にいる人は今二股をしているどちらでもないだろう。いつかケンカして別れてを繰り返す過程でしかないのだから、今は楽しんで、それがバレてケンカして悲しんで、別れた時に寂しがって、それも込みで人生の大事な二股の思い出になるんじゃないかと思うのだ。

僕のおばあちゃんによく聞かされた話がある。学生時代、おばあちゃんはしつこくアプローチされた男性とつき合って、いつの間にかおばあちゃんもメロメロで大恋愛をしたそう。「いつか結婚しようね」と約束までしていたけど、相手に浮気され、あろう事かその男性は浮気相手の女性と結婚までしたらしい。

当時、おばあちゃんは体調を崩して寝込むほど悲しんだけれど、そのおかげでおじいちゃんと出会い、子供ができて、僕のようなかわいい孫までできた。あの時はつらいと思ったけど、今思えば彼が浮気してくれてたことを心底感謝している。だから人を簡単に恨みなさんな。そんなよくある話だ。

「最終的に一生を添い遂げる人がいるのなら、うまいこと状況が勝手に重なってくれるものだ」。うそか本当かは別として、そのくらいの気持ちで生きた方が楽ではないだろうか。好きな人がいる時にもう1人、選べないくらい好きな人が現れたのなら、それはうまいこと状況が重なってくれていないだけのこと。

「そんな楽観的で生涯孤独になったらどうするんだ!」という人もいるかもしれないが、数十年後の生涯孤独の自分が、自由を謳歌して出会った友人や作り上げた環境を否定できようか。人生の後悔なんて、死ぬ時にならないと絶対に分からない。少なくとも現時点で僕は、明日死ぬとして「今ある人間関係や出会いを投げ出してでも、ああしておけばよかった」という後悔はない。

そう考えると僕が32年の人生でした選択で、不正解となったものはないのだ。あと何十年生きるか分からないけど、このままの調子でいけば死ぬ時に後悔するほどの不正解をこれから選択することはないのではないかと予想する。

二股をしているゲイ友達のお相手も浮気が分かった時には「時間を無駄にされた」と思うだろうけど、将来何かを成し得た時にその時間の無駄におばあちゃんと同じように感謝するかもしれない。無駄な時間の間に逃した恋なんて知りようがないのだから。そう思って僕の口から出たアドバイスは「まあ、うまくやんなよ」だった。

一般的に正解だと言われることが、自分にとって正解じゃないことは案外たくさんある。僕の場合はSNSとの向き合い方。2年ほど前に週刊誌のインタビューを受けた時に「エゴサはしますか? 批判とはどう向き合いますか?」と聞かれたことがある。

その時には自信満々に「エゴサします。世間からどのような評価を受けているのかを調べて意見をブラッシュアップするのは、タレントとしての商品価値を高めます。誹謗中傷と建設的な批判は違うので、何かを発信するからには反対意見にぶつかる覚悟が必要です」と答えた。おそらく当時、どこかで聞きかじった一般的な模範解答を信じてそう答えたが、今ではこの意見には完全にNO! 少なくとも今の自分には合わない考え方だと言いたい。

ここ数年エゴサをして培ったのは、広い視野やタレント価値ではなく「自己否定の精神」だけだ。だってどんなことにも、正解ととらえる人と不正解ととらえる人がいるから、何を言っても批判はされる。それを受け止めているうちに、「多分私は間違っているけど、こう思う」というオドオドした発言しかできなくなるのだ。そんなオドオドした物言いのタレントが誰の心に刺さろうか。

「誹謗中傷と建設的な批判は違う」という意見もごもっともだが、最近は「だから?」と思うようになってきた。エゴサはしないからネットで好きに批判してもらって構わないが、頼んでもないのに自分の目に触れるDMや返信欄に建設的批判を送りつけてくるのは、もう誹謗中傷と同じどころか、誹謗中傷よりもダメージがある。

愛が感じられて読んでいてうれしくなるような批判ならいいが、そんな言葉を選んだ批判なんてまれ。不快になった時点で問答無用でブロック。「発信するからには批判を受ける覚悟をしろよ!」と言われても「それって、あなたの思う正解ですよね?」だ。発信なんて、“同じ意見を分かってくれる人探し”くらいの気持ちでやってる人もいるのだから、「勝手にどんな覚悟が必要か決めつけないでもらえる?」と思うのだ。

この考え方を「開き直り」だとか、「自分の視野を狭める考え方だ」とかいう人もいるだろうが、自分の視野は他人に無理やり開かれるものではなくて、好奇心や探究心で自分からキャッチしに行くもの。批判がなくとも視野を広める方法はいくらでもある。このくらい開き直った今はかなり自己肯定感も高くて幸福度も増した。開き直り上等! 結果論上等! そのことに気がつけたのだから、ここ数年の僕のエゴサ生活には感謝だ。

最近は「自己肯定感を高めよう」とか「セルフラブが大事」といった価値観が出てきたけど、こうやってセルフラブ精神で生きていると今度は「謙虚な姿勢がない」とか「傲慢になるな」といった意見も飛び込んでくるだろう。「自分ってすごい! 素晴らしい!」と思えることがセルフラブだが、だからといって「自分と比べて他人はダメ人間ばかり」と他人を見下せばそれは傲慢になる。

「自分ってすごい。皆もそれぞれすごいけどね!」といった感じで本当はセルフラブと謙虚な姿勢は共存できると僕は思うのだけど、そう思わない謙虚論者からはきっと「私なんて」と自分を卑下するようになるまで批判され続けるのだろう。

結局何をやったって文句は言われるし、何をやったって視点次第で正解と思える。そう思えば深く考えて真面目に生きるのがバカらしくない? 今の自分が楽しい方、面白い方、何となく居心地がいい方を直感で選べば良くない? 適当に生きようよ。(タレント 小原ブラス)