1945年、3人の米軍機搭乗員が処刑された石垣島事件のキーパーソン、炭床静男兵曹長。横浜裁判の法廷写真に写る、炭床兵曹長の確認が取れた。炭床兵曹長は事件にどのように関わり、戦犯に問われたのか。国立公文書館で、炭床静男に関する資料を探した。そこに書かれていたのはー。

◆付け加えられていた「宣誓」

東京都千代田区にある国立公文書館

東京都千代田区にある、国立公文書館。法務省から移管された戦犯関係の資料が収蔵されている。石垣島事件のファイルの中に、炭床静男の資料もあった。鹿児島県在住の炭床静男は、福岡市に呼び出されて、調書を取られている。1947年2月5日のことだ。

冒頭、次のように書かれている。「私、炭床静男は、良心に従い真実を語り、何事も付け加えず、何事も隠さないことを宣誓した後、昭和二十二年二月五日九州福岡法務部に於いて証言した」

◆事実と違う証拠

炭床静男の調書(国立公文書館所蔵)

この調書は、戦犯裁判に証拠として提出されたものを弁護団が被告本人に見せて、違っている部分があるかを尋ねたもののようだ。所々、メモが入っている。「NO.59」と文書の番号がふってある。炭床静男は、この冒頭の「宣誓」が、そもそも全然無かったと波線を引いて指摘している。波線は、「全然言わない事」、傍線は「言ったが文句が違う所」と注釈がついている。線がひかれていないところは、事実だと認めているようだ。これを前提に、調書の記載をみていく。

始めはプロフィールを聞かれている。年齢は31歳、既婚で二人の子がいる。現在の職業は農業。1933年(昭和8年)に佐世保海兵団に入団。1939年に江田島兵学校の教員。1942年3月に駆逐艦秋月、8月に照月に乗り組みなど記載がある。1943年マラリアに罹り入院している。石垣島警備隊に配属されたのは1944年9月、二ヶ月後の11月に到着。石垣島警備隊では本部に所属し、榎本中尉と共に甲板士官を務めたとある。直属の上官は井上勝太郎副長で、時々、榎本中尉からも命令を受けた。

◆当日、火葬場にいた炭床静男

佐世保海兵団に入団したころの炭床静男(遺族提供)

1945年4月15日、石垣島事件当日。撃墜されたグラマン機に乗っていた飛行士たちは石垣島警備隊に連れて来られた。その姿を炭床静男が見たのは、午後2時ごろ、本部で訊問が行われていた時だった。訊問には出席せず、30メートル離れたところから数分間見ただけだったので、訊問の結果は知らなかった。飛行士の人相について聞かれているが、「ヒゲのある飛行士が強情で高慢というのを聞いた」と述べている。

士官たちはその晩、会食をしているが、炭床兵曹長は会食の後、その日の空襲で、機関銃で撃たれ死亡した二人の兵士を火葬するため、本部を出ている。飛行士たちを処刑することを知ったのは、午後8時頃。火葬場から300メートル離れた所に灯りがあるのに気付いて、部下を一人、様子を見に行かせた。すると、その部下が帰ってきて、飛行士の処刑があると言った。

◆現場に着くと、すでに2人が・・

石垣島事件の法廷 左から4番目が炭床静男(米国立公文書館所蔵)

炭床兵曹長が火葬場から直接、処刑の現場に向かうと、着いたときにはすでに2人の飛行士は斬首されていた。そして三番目の飛行士が柱に縛られているのを見た。飛行士は目隠しをされ、手を後ろに縛られていた。

このあと、「自分はそれがヒゲが生えた飛行士で、高慢で強情だと言われた者だと思った」と書いてある部分に、波線が引かれている。炭床静男本人が、弁護人に「全然言わないのに書かれている」と指摘している部分だ。

現場に到着した炭床兵曹長は、処刑される3人目の飛行士の側へ行った。ただ、好奇心からよく見ようと思った、と書かれている。しかしその後に続く、「そして処刑がよく見えるところに居ようと思った」というところに、また波線が入っている。好奇心はあったが、残虐なシーンを見たかったわけではないということか。

◆「命令はあったか?」聞かれていない問答が調書に

石垣島事件の現場(米国立公文書館所蔵 髙澤弘明氏提供)

さらに「飛行士の側にまわってから貴方に誰かから仲間に加わるよう命令されたか、又、虐待を命ぜられたか」という質問がされ、「いいえ」と答えたことになっているが、そこには、「こんな問答は全然しておりません」とメモが書き加えられている。

これは「命令がなく、共同謀議である」ということを裏付ける質問であり、捏造された問答ということになるのだろうか。さらに、波線や傍線が入る部分が増えてくる。

「柱に縛られている飛行士を最初に殴ったのは自分です。自分が始終持って歩いている三尺(約90センチ)の杖で彼の右足と上部を二回殴った」というところに傍線があり、「この所は『NO.72』の通りに言ったと思っております」と書かれている。

同じファイルに、「NO.72」の調書もあった。こちらは検事がとった調書のようだが、「飛行士の体格が立派だったので、右の股(膝の上)を軽く二回杖の先で叩いた」と書かれている。

◆酷い暴行はあったのか

石垣島現場付近の松の木

このあと、「北田兵曹長が杖を自分の手からひったくって、飛行士の胃のところを三回殴った。最初の一打に飛行士はうなりだした。歯をぎりぎり噛むと同時に、顔に苦しみが現れた。自分は北田兵曹長に酷く殴りすぎると言って、彼の手から杖を取った。それで彼は飛行士の顔を拳固で殴った。その後で、4,5人の兵が続けて拳固で飛行士を殴った。全部で五分位殴るのが続いた後、榎本が『殴るを止め』と命じた」と続く。

この文中、炭床が事実と違うと指摘しているのは、北田が殴ったのは、「胃のところ」ではなく、「へそのところ」だという部分。そして、「飛行士がうなりだし、歯をぎりぎり噛んで苦しんだ」「北田は飛行士の顔を拳固で殴った」という部分は「言っていない」としている。

そして、炭床はこの後、藤中松雄一等兵曹が銃剣で刺したところを見ている。次に成迫上等兵曹が刺した後、榎本中尉が「銃剣術のやり方が正しくない」と言って止め、本番の仕方を実地にして見せた。炭床自身も20人ばかりが突いたところで、命令されて一回突いた。20分ばかりで全部で30人位が突いたと述べている。飛行士は最初の藤中の一撃で絶命したようだった。

◆「仇討ち」付け加えられた問答

銃剣

この調書の最後に、炭床静男が「この事は言っていない」と否定している部分が付け加えられている。以下、全部だ。

 貴方の陳述に何か付け加えることはないか

 はい、刺殺が行われている時、自分は田口少尉が彼の兵に、よく突け、これは敵の機銃で死んだ彼の隊の三人の兵の仇討ちなのだからと言っているのを聞いた。銃剣刺殺がすんだ後、榎本中尉は刺殺された飛行士の処置を自分に命じた。それで自分は数人の兵を指揮して飛行士の身体から綱をはずした。綱をほどくのが難しいのがわかったので、自分の剣を抜いて綱を切った。そして他の二人の飛行士の遺体が入っている穴に持ち込んだ。処刑後、ある時、名前は忘れたが、ある下士官が自分に言った。幕田大尉が彼にこういうことを話した。幕田大尉は副長が、彼の代わりに飛行士の首を斬りに来なかったのを残念がったと。処刑の後、二日目頃、田口少尉は自分に直接言った。飛行士の一人の斬首を自分から申し出てやることが出来たので気が済んだ、部下の三人の仇討ちが出来たからと。

田口少尉が、自分の隊の三人が戦死したので、その仇討ちとして自分から処刑を申し出たというストーリーだ。しかし、井上乙彦司令ほか本人の証言も含めて、田口少尉は命令によって二人目の捕虜を殺害している。これまで資料を見てきた中には、確かに「仇討ち」の要素があったことを証言した人もいた。しかし、炭床兵曹長のように、言ってもいない人の調書に付け加えているのは、米軍の調査官が事件全体を命令によるものではなく、共同謀議に持ち込むために有利な要素だと思ったからではないか。そして、この後に取られた調書はさらに、それが色濃くなっていたのだったー。
(エピソード40に続く)

*本エピソードは第39話です。
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RKB

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。