宮入慶之助氏の功績をたたえる「宮入先生学勲碑」=鳥栖市曽根崎町

 明治から昭和にかけて、筑後川流域で感染経路や原因が分からず、罹患(りかん)すると死に至る病として恐れられていた風土病がある。「日本住血吸虫病」(別名・ジストマ)。鳥栖市曽根崎町の基里運動公園前に立つ「宮入先生学勲碑」(1952年建立)は、この病を今に伝えている。

 「おなかが太ったように腫れている人がいた」。鳥栖市の大石堅二さん(88)はこの病の恐ろしさを振り返る。自身も20代の頃に感染した。「症状は出なかったが、かかったらきついという話は聞いていた。若くして亡くなった人もいる」と話す。

 鳥栖市誌などによると、日本住血吸虫は河川敷や水路に生息する巻き貝を宿主とする寄生虫で、貝の体内で発育する。成長後、人の皮膚から侵入し、腹水などを引き起こす。山梨県の甲府盆地や広島県の片山地方で流行し、佐賀、筑後一帯でも大流行した。

 1913(大正2)年、寄生虫が特定の貝にのみ寄生して成長することが、九州帝国大(現九州大)の教授の宮入慶之助氏らによって解明された。教授の名をとって貝の名前はミヤイリガイとなり、未知だった感染経路が明らかになった。

 1957(昭和32)年、鳥栖市と旧北茂安町、旧三根町の3市町で「佐賀県撲滅対策協議会」が発足した。県内では同年以降、この病による死者は34人、患者数は1600人を超え、貝撲滅のために住民を中心に水路のコンクリート化や薬剤散布などの対策が進められた。2000年、協議会の解散を迎え、「撲滅は百年戦争」とも言われた奇病との闘いに幕を下ろした。

 同年に鳥栖市保健センターで係長を務めていた同市の井邊正文さん(70)は「発見されなくなって20年近くたってもミヤイリガイではないかと、似た貝を持ってくる住民もいた。撲滅に向けて大変な努力があったと思う」と話す。(井手一希)