鎌倉で育ち、今も鎌倉に住み、当地を愛し続ける作家の甘糟りり子氏。食に関するエッセイも多い氏が、鎌倉だから味わえる美味のあれこれをお届けする。今回は、昨年4月に突如現れた、鎌倉の葡萄で鎌倉のワインをつくるという”無謀”ともいえるワイナリーだ。

鎌倉産の葡萄でワインをつくろうとするなんて

あれは、とある冬の日。由比ヶ浜通りのイタリアン・レストラン「オルトレヴィーノ」で、生ハムをつまみに赤ワインを飲んでいた。ガラス越しに、正面の向かいの長らく空き店舗だったところが工事をしているのが見えた。
「何かお店ができるんでしょうか?」
店主の古澤さんに聞いたら、ワインショップらしいという。オルトレヴィーノはワインショップも併設したレストランだし、古澤さんはイタリアワインの目利きとして知られている。そのお向かいにワイン屋さんとは、ずいぶん大胆だなあと思った。さらに、古澤さんいわく、鎌倉産の葡萄でワインを作ろうとしている人の店だというではないか。葡萄はもっと寒い地域で栽培される。鎌倉産の葡萄など聞いたことがない。大胆を通り越して、なんとまあ無謀な。正直いって私はあきれてしまった。

その数ヶ月後、2022年4月に開業したのが「鎌倉ワイナリー」だ。早速、訪れてみた。鎌倉産の葡萄でワインを作ろうなんて無謀なことをするのは、いったいどんな人なのだろうと思ったのだ。この話、少し長くなります。

その人の名は夏目さん。第一印象はさわやかでスマートな中年男子で、そんな突飛なことを思いついて実行しようとするタイプには見えない。しかし、私が二、三質問すると、ワインショップ内に醸造所を作り、鎌倉産の葡萄を鎌倉で醸造して、名実ともに「鎌倉産」のワインを作るという計画を熱く語ってくれた。

七里ヶ浜の小高い丘と鎌倉野菜の畑が多く並ぶ関谷に葡萄畑があるという。当たり前だが、このプロジェクトのためには多額の資金が必要で、一時はクレジットカードが差し止められたことなども聞いた。店の外観には「café wine shop winery」とある。確かに、夜より昼が似合いそうな雰囲気は、ワイン・バーというよりワイン・カフェという方がふさわしい。ショップの隣にはがらんとした何もない空間があって、そこに醸造用のタンクを導入する予定なんだとか。

この時はまず、小田原産の葡萄を東京で醸造した白の発泡酒を味わった。鎌倉産の葡萄を本格的に収穫するのは少し先だそう。すっかり夏目さんの無謀さに興味津々になった私は収穫には手伝いに行く約束をし、小田原産の白を一本、来客用に購入した。夏目さんの話をしながら、これを開けたらきっと盛り上がるはず。ウケ狙いは大切だ。

農業の大変さを身をもって知った

2022年の9月の終わり、いよいよ葡萄の収穫となった。
「運動靴、水筒、タオル、虫除けスプレーを持参してください。靴には泥避けの使い捨てビニールカバーを差し上げます。剪定鋏はこちらで準備します」というメッセージを受け取った。残暑の厳しい日だった。私は日焼け止めを入念に塗りキャップを被って、軍手も持参して関谷の畑に向かった。

畑には私の背丈より少し低いぐらいの葡萄の木が広がっており、そこらじゅうで蜂が音をたてて飛び交っている。刺されたことのある私がビビっていると、夏目さんがいった。
「蜂が目指しているのは葡萄です。人間になんて興味ないから大丈夫ですよ。それぐらい葡萄は甘いんです」

私が担当したのは赤ワイン用にカベルネフランという品種。葡萄の果実の部分だけを切って箱に放り込んでいくのだが、食べる葡萄と違って、ごく小粒。ブル―ベリーぐらいの大きさだ。ワイン用の場合、葡萄の実でなく皮の旨味がワインの味を形成するゆえに、小さい時期の葡萄を使うそう。

葡萄の高さに合わせるとずっと中腰で作業しなければならない。やー、キツかったあ。最初こそ蜂が怖かったが、すぐにそんな余裕はなくなった。小粒の葡萄が目の前に次々と飛び込んでくるような、といったらいいだろうか。小一時間で汗だくのくたくた。農業の大変さを、文字通り身を持って知った。もう、ワインを絶対に残しません。いや、残せません。

その翌週はタンク詰の手伝いをした。今度は畑でなくて醸造所である。ワインバーの隣の、がらんとしていた空間にはワインを寝かせるための巨大なタンクがいくつも設置され、すっかり「ワイナリー」となっていた。ボルドーのワイナリーで人々が足で葡萄を踏み潰していく動画を見たことがあって、ワイン作りといったらそれがイメージだったが、今時彼の地でもそんなことはしないそう。そりゃあ、衛生的にどうかと思うよね。

私たちはビニール手袋をして次々と葡萄を潰した。驚いたのは、由比ヶ浜通りという鎌倉では都会といっていいこの場所まで、蜂たちがやってきたこと。潰されていく葡萄の甘い香りに群がっていた。無事、タンクに収められ、手伝いの人たちみんなシャンパーニュが振る舞われた。銘柄は……忘れちゃった。
 

併設のカフェ、ドメーヌナツメは、夏目さんとパートナーの昌子さんで営んでいる(ナツメマサコさんですね)。昌子さんはコルドンブルーを卒業されたお菓子作りのプロ。ワインショップでは彼女の作ったクッキーなどが売られている。
秋も深まった頃には、私たちが収穫した葡萄の酵母を使ったパンが販売された。ドライフルーツやマカデミアアナッツなどが入ったハードタイプで、これが本当においしかった。厚めに切ってバターをたっぷりつけるだけで味わったが、もうやめられない止まらない。自分が摘んだ葡萄うんぬんはすっかり忘れてかぶりついた。

ファーストヴィンテージにまつわる
ドラマのような物語

年末の瓶詰めは手伝えなかったが、そこからさらに寝かせること半年。2023年6月、ついにドメーヌナツメによる「鎌倉ワイン」のファースト・ヴィンテージを味わった。渋味とか苦味とか酸味とか甘さとか芳醇さとかそういうことを飛び越えて、私の舌には「達成感」という味わいが染み渡り、脳裏には小さな葡萄の実に吸い寄せられる蜂たちの姿が浮かんだ。

夏目さんはワインには樽の香りは必要ないという考えで、鎌倉ワイナリーではエッグ・タンクを使用している。内側がコンクリートになっているもので、木製タンクとステンレス・タンクの利点を合わせ持つといわれているらしい。しかし、このカベルネフランのファーストヴィンテージは木製の樽で醸造された。これにはドラマのような物語がある。

前年の晩秋、白人の老夫婦と若い男性がふらりとワイナリーにやってきた。どうやら旅行者のようだった。老紳士のハンチングにバブアーのオールドコートという服装。見覚えのある顔。夏目さんはピンときた。その日のグラスワインの銘柄は「ルイジャド」だったが、紳士はそれを見て意味ありげに笑いながら「ルイジャドか」と呟いた。そこで、夏目さんは、この紳士がロマネコンティのオーナーだと確信したという。
ご存知の方は多いと思うが、ロマネコンティとは「世界で最も高値で取引されるワイン」として知られるトップ・オブ・ザ・トップ。ルイジャドは、そこまでではないかもしれないが、いわばライバルの銘柄である。

夏目さんは意を決して、自己紹介をし、2000年にブルゴーニュで会ったことがあると伝え、「私の作った鎌倉のピノ・ノワールを飲んでほしい」とグラスを差し出した。紳士は、いや、ロマネコンティのオーナーは、香りを嗅ぎ、口に含むと、背後の醸造所を見ながらいろいろと質問をしてきた。
そして、「醸造家として一番大切なのは収穫時期だ。それから、樽を使った方がいい」というアドヴァイスをくれた。ここには、本当に偶然だそうだが、タンクだけなく、DRC(ロマネコンティの会社)で使っているものと同じ樽もある。それを伝えると、「どこでそれを手に入れた?」と驚き、「ぜひ、その樽を使うべきだ」と強い口調でいった。鎌倉ワイナリーがファーストヴィンテージの醸造に樽を使ったのはいうまでもない。帰り際、二人は握手をした。

店を出ると、大富豪である彼らはリムジンに乗るわけでもなく、ゆっくりと長谷寺方面に歩いて行った。ワイン愛好家にしてみれば神様のような人たちが歩いているのに、観光客が誰一人として気がつかない。
夏目さんは「鎌倉ってすごいな」と思わずつぶやいてしまったそうだ。開業したばかりの極東のワイナリーにふらりとロマネコンティのオーナーがやってくるなんて。もし私が、こんなあらすじを小説で書いたら「出来過ぎてる」といって没にされるだろう。

ボトルのラベルにこめられた思い

最後に、鎌倉ワインのラベルについても触れておきたい。そこには、葡萄の女神と葡萄畑がある七里ヶ浜とそこから見える海が描かれている。髪の長い女性が花畑のような場所であぐらをかき、背後には海。かなりカラフルで、イメージされるのはサーフィンの世界である。

率直にいって、安くはないワインのラベルとしてはかなりカジュアルな印象だ。親戚がワイナリーを営む友人とここを訪れた際、彼女も同じ感想だった。同席したドイツ人の友人は「鎌倉というよりタヒチとかグアムのワインかと思ってしまう」とのこと。もちろん海もサーフィンも鎌倉の大切な財産ではあるけれど、私たちはどうしてもこのワインとは合わない気がした。鎌倉の葡萄を鎌倉で醸造するという無謀な取り組みを必ず成功させてほしいので、私たちは夏目さんに「忌憚なき意見」を伝えた。もう少しシックなラベルにした方がいいんじゃない?と。他にも、同じように感じて彼に伝えた鎌倉の飲食関係者もいると聞いた。

しかし、夏目さんは絶対に首を縦に振らない。この絵は茅ヶ崎の女性画家によるもので、自分のワイナリーを持ったら彼女にラベルを頼もうと決めていたという。実際にプロジェクトがスタートしたので、個展に行き、絵を使わせてほしいと頼んだところ、「ワインのラベルを描くのが夢だった。あり物の絵ではなく、新しく描きたい」という返事をもらい、七里ヶ浜の畑の絵が出来上がった。

外野がとやかくいうことではないのかもしれない。
彼の無謀さは、不可能を可能にするし、これまでの常識もひっくり返してしまいそうな気がする。
冒頭でも書いたように「鎌倉ワイナリー」の向かいは、イタリアワインの「オルトレヴィーノ」、この二軒のほど近くには鎌倉が誇るナチュールワインの酒店「鈴木屋酒店」がある。すっかりワイン地区になった。今年もまた、葡萄の収穫の手伝いに行くのが楽しみだ。



写真・文/甘糟りり子

鎌倉だから、おいしい。

甘糟りり子
100種類近いアラカルトを好きなように楽しめるオステリア…究極の普段使いのレストラン「コマチーナ」_10
2020年4月3日発売
1,650円(税込)
四六判/192ページ
ISBN:978-4-08-788037-3

この本を手にとってくださって、ありがとう。
でも、もし、あなたが鎌倉の飲食店のガイドブックを探しているのなら、
ごめんなさい。これは、そういう本ではありません。(著者まえがきより抜粋)

幼少期から鎌倉で育ち、今なお住み続ける著者が、愛し、慈しみ、ともに過ごしてきたともいえる、鎌倉の珠玉の美味を語るエッセイ集。
お屋敷街に佇む未来の老舗(イチリンハナレ)、自営の畑を持つ野菜のビーン・トゥー・バー(オステリア・ジョイア)、カレーもいいけれど私はビーフサラダ(珊瑚礁 本店)、今はなき丸山亭の流れをくむ一軒(ブラッスリー・シェ・アキ)、かつての鎌倉文士に想いを馳せながら(天ぷら ひろみ)……ガイドブックやグルメサイトでは絶対にわからない、鎌倉育ちだから知っているおいしさと魅力に出会える1冊。
素材が豪華ならいいというものでもない、店の内装もまた味わいの一端を担うもの、いいバーとバーテンダーに出会う喜び……著者自身の思い出や実体験とともに語られる鎌倉のおいしいものたちは、自然と「いい店」「いい味」ってこういうことなんだな、という読後感をくれる。
版画のように精緻なタッチで描かれた阿部伸二によるイラストも美しく、まさに読んでおいしい、これまでなかった大人のための鎌倉グルメエッセイ。