【達川光男 人生珍プレー好プレー(最終回)】1978年から始まった現役生活にピリオドを打ったのは92年のことです。リーグ優勝した前年の120試合から100試合と出場機会が減ったものの、僚友の大野豊に「ワシは来年、気合入れてやるけ」と決意表明した翌日の決断でした。次代を担う西山秀二や瀬戸輝信への世代交代を図りたい球団側の意向をくんだというところです。

 引退試合として用意していただいたのが、旧広島市民球場での10月4日の巨人戦です。7回二死走者なしから代打で登場すると、涙が止まりませんでした。木田優夫が投じた初球のストレートに詰まらされて現役最後の打席は遊ゴロ。真っ二つにへし折られたバットを左手に持ったまま一塁を駆け抜けました。

 そして9回にはリリーフカーに乗って大野と2人で登場。15年間の感謝を伝えると「今日は最悪の状態じゃけ、リードをよろしく頼むぞ」と。あとでブルペン捕手の熊沢秀浩から「大野さんは最高の球を投げていましたよ。『今日はタツと最後のバッテリーじゃけ』って言いながら」と聞かされ、また号泣しました。モスビーを遊飛、原辰徳を遊ゴロに仕留めて最後は駒田徳広を二ゴロに抑え、私の現役生活は終わりました。

 大野にはカープの監督となった99年に投手コーチをしてもらいました。ちょっとした行き違いから不快な思いをさせてしまったのは私の不徳の致すところです。少しギクシャクしたことも事実ですが、2013年オフにバッテリーコーチとして中日に行くことが決まった際には「頑張れよ」とのエールとともに「なんや、その財布は! そんな財布じゃカネが入ってこんぞ」と言いながらルイ・ヴィトンの財布をプレゼントしてくれました。中に1万円を入れてね。10年以上が経過した今でも大事に使わせてもらっています。

 私は県立広島商高時代にバッテリーを組んだ佃正樹から「投手を孤独にしてはいけない」と学びました。15年1月には最愛の妻、仁美が他界し、人は一人では生きていけないということを痛切に感じている私にとって、なんでも言い合える大野はかけがえのない生涯の友です。そういう仲間と出会えたのは野球を続けてきたからこそ。古希を前にして、長嶋茂雄さんがサインなどにしたためる「野球というスポーツは人生そのものだ」との言葉を実感しています。

 プロフィル欄にもあるとおり、私の通算成績など大したことはありません。同世代の捕手と比べても山倉和博や中尾孝義はリーグMVPに輝いているし、袴田英利もパ・リーグを代表する存在でした。私のような者が今もこうしてメディアで取り上げてもらえるのはテレビの「珍プレー好プレー」で名前を覚えてもらえたからです。だいぶ体にガタも出てきましたが、元気なうちは「珍プレー好プレー」のある人生を送りたいと思っています。

 当連載も今回で最後となりました。ながらくお付き合いいただき、ありがとうございます。