巷間、秀吉は喜んだとも伝えられていますが、秀吉は内心「ややあざといな」と受け止めたのではないかと思います。

ただ、決して悪い気はしなかったのでしょう。政宗は会津四郡・岩瀬郡・安積郡の没収にとどまり、取り潰しは免れました。奥州を統治する上で、政宗が必要であると冷静に判断されたとも読めます。

一方で、葛西氏や大崎氏といった奥州の大名は改易され、最上氏や相馬氏は所領を安堵されました。

歴史のif(もしかしたら)として、「政宗がもう少し早く生まれていたら、天下を統一できていたか」という話が出てくることがあります。しかし、政宗が仮に20年早く生まれていたとしても、上洛の途上には信玄や謙信、信長など「戦国オールスター」がいたので、おそらく天下に覇を唱えることは厳しかったのではないでしょうか。

自らが招いた再びの窮地

若い頃の政宗は、ある種「俺は他の連中とは違う。将来ビッグになる」というような全能感を丸出しにした青年に近いイメージを醸し出しています。しかし、秀吉というとてつもなく巨大な存在を前にして、ヤンチャな面が徐々に削ぎ落とされ成熟していきます。

政宗の「大人としての振るまい」は、小田原参陣の際に早くも表れています。小田原に到着した政宗は前田利家や浅野長政などから詰問を受けましたが、その際に、千利休から茶道の教授を受ける斡旋を依頼しています。これを聞いた秀吉は、「田舎育ちに似ぬ奇特さと、危機の最中にそのような申し出をするとは」と、政宗の器量を褒めたそうです。

北条氏滅亡後の奥州仕置では先導を務め、秀吉の接待もしています。とはいえ、当時まだ20代半ばだった政宗のヤンチャの虫が、完全に収まったわけではありません。天正19年(1591)、改易された葛西氏と大崎氏の旧臣が一揆を起こし、政宗は新たに会津の領主となった蒲生氏郷とともに鎮圧にあたります。ところが、一揆を裏で煽動していたのが政宗であることが露見し、政宗は弁明のために上洛します。