藤田宗一氏が1年目に経験したNPBワースト連敗「負けるほどメディアの数が増えた」

 ロッテ、巨人、ソフトバンク3球団で救援一筋600試合に登板した藤田宗一氏は1年目の1998年、「プロ野球ワースト記録」を体験してしまった。ロッテが1引き分けを挟んで18連敗。ワースト記録更新の17敗目の敗戦投手は藤田氏だった。「そうなんですよ、僕なんです」。出口の見えぬトンネルの中で、何が起きていたのか。

 ロッテはこの年の4月は首位。好スタートを切った。しかし、暗雲も漂い始めていた。藤田氏が「カワさん」と慕っていた同じ左腕の守護神・河本育之投手が故障で離脱。リリーフ陣のやり繰りが厳しくなった。6月13日のオリックス戦に4-6で敗れると、勝利の女神から完全に見放された。

「ロッテって実際に弱いんや、と思ってました。連敗は当たり前みたいな感じでしたね」。チームはそれまでの10年間でAクラスは1度(1995年の2位)。その年を除けば5位か最下位に終わっていた。「でも、まあそろそろ勝てるやろなという雰囲気はあったんですが……。8連敗くらいした時に『アレレ、まだ勝てへんのかな』と自分も1年目ながら心配になりました」。

 チームは屈辱を止めるべく、お祓いを受けたり、ベンチに塩を盛ったりするなど手を尽くした。藤田氏が入団してから抱いていた「ロッテはホンマに人が少ないんや」の環境が、皮肉にも変わっていった。「負ければ負けるだけ、メディアの数が増えるんです。それでプラス、応援してくれるお客さんも増える」。スポーツ紙の担当記者など数人だけだった環境が激変。多くのテレビカメラに追い掛け回される日々となった。

 当初は自身も「何故にこんなに急に」と不思議がっていたが、新聞を読んで「ええーっ、今そんなに凄いことになっているんだ」と事態を把握した。連敗は、とうとう史上最多に並ぶ16にまでのびた。

黒木知宏があと1人で同点弾を被弾…藤田氏はブルペンで目撃

 7月7日のオリックス戦は、グリーンスタジアム神戸(現ほっと神戸)でのナイトゲームだった。その時点でロッテは最下位でオリックスは5位。それなのに、民放テレビの地上波で全国中継された。ワースト更新が懸かった一戦は注目の的になっていた。

 ロッテが3-1とリードして迎えた9回2死一塁。カウントも追い込んだ。マウンドは先発の柱・黒木知宏投手。藤田氏らブルペン陣も「安心して『黒木やから最後までいける。終わったな』と。みんな椅子に座って余裕かましてました」。

 ところが、オリックスのハービー・プリアム外野手がバットを振り抜くと、打球は左翼ポール際の観客席へ突き刺さった。真夏の熱投139球目を運ばれた黒木は、精根尽き果てたかのようにしゃがみ込んで立ち上がれなかった。

 球場のブルペンはグラウンド内にあり、試合を直視できる。「打球が目の前を通っていきました。みんな唖然です。黒木の姿も見てました」。しかし、まだ同点。すぐ「誰が投げんねん?」と考えたところでブルペンに電話があった。受けたコーチから「2人つくれ」の声。藤田氏と近藤芳久投手が準備に入った。

 過酷な状況下で選ばれたのは藤田氏。「ベンチを見たら落胆してフワーッとなってましたね。黒木なので、誰もが勝ったと思ってたでしょうから」。それでも藤井康雄内野手を三振に仕留め延長へ。10回、11回も無失点の驚異的な奮闘ぶりだった。

引き分け目前…延長12回無死満塁で降板「最後まで投げさせてくれ」

 3-3の延長12回。ラストイニングだった。勝ちのないマウンドにも藤田氏は上がったが、無死満塁の大ピンチを招いて降板。後を継いだ近藤が広永益隆外野手に代打サヨナラ満塁本塁打を喫する壮絶決着で、ワースト記録は更新された。

「ぶっちゃけ言いますけど、それまで抑えていたのに何で交代なのかなと思っていました。あと何球かじゃないですか。最後まで投げさせてくれよ、と。それだけ覚えてますね」。ルーキーらしからぬ藤田氏の勝負根性が窺える。

 試合後は、当然ながら重苦しかった。「帰りのバスでは、マネジャーが『カーテンを閉めて下さい』と言ってましたね。宿舎に戻っても集合がかかり、外出禁止になりました。何があるか、わからないからと」。

 結果的に“節目”の敗戦投手になった。「でも、こうやって記録に残っていることは良かったかもしれません。もし、あれがドローだったら、こういう取材も受けていないでしょう」。

 藤田氏の1年目は56試合登板で6勝4敗7セーブ、防御率2.17。新人王こそ逃したものの、堂々たる成績だった。(西村大輔 / Taisuke Nishimura)