イスラム組織ハマスがパレスチナ自治区ガザで拘束する人質の中には、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を生き延びた家族の子どももいる。イスラエル南部のガザ境界に近いキブツ(集団農場)、ニルオズで拘束されたアレクサンダー・ダンツィグさん(75)だ。自身は1948年、ポーランド・ワルシャワ生まれだが、第2次大戦中に両親や姉がナチスの迫害を逃れて現在のウクライナに避難した。そんな家庭環境からホロコースト研究に身を投じ、民族間対話の重要性を訴えていた。アレクサンダーさん家族の軌跡をたどると、ユダヤ人を巡る欧州・中東の歴史の深さが浮かび上がる。(年齢は取材当時、共同通信エルサレム支局 平野雄吾)

 ▽突然の襲撃、消えた父親

 イスラエル南部の砂漠地帯にある小さな集落、ミドレシェト・ベングリオン。3月下旬、アレクサンダーさんの次男マティさん(47)が声を絞り出した。
 「私はまだハマス奇襲のトラウマの中にいる」

 昨年10月7日早朝、ニルオズ。ハマスが発射したロケット弾の飛来を告げる警報で目覚めると、妻(47)や3〜8歳の娘3人を連れて自宅の簡易シェルターに避難した。「ロケット弾が来た」。ほどなく、ニルオズの別の住宅で暮らすアレクサンダーさんからも注意喚起の電話があった。
 「テロリストが侵入した」。ニルオズ居住者が参加する通信アプリのグループにメッセージが流れる。ほどなく銃撃音も響き始めた。マティさんは単なるロケット弾攻撃とは全く異なる様子を感じ取った。急いで台所の冷蔵庫に行き、目についたマスカットを一つかみにすると、簡易シェルターに戻った。子どもたちにブドウを食べさせながら、自身はシェルターのドアノブに常に手を当て、ハマス戦闘員の侵入を警戒した。
 イスラエル軍兵士らがニルオズに来てマティさんらを救出したのは7日午後5時ごろ。簡易シェルターに避難していたのは計8時間以上に上った。
 「何が起きているのかよく分からない感覚で、映画の中に自分がいる感じがした。生き残ったのは奇跡的だった」(マティさん)
 ハマス戦闘員はニルオズで多数の民家を襲撃したが、マティさんの家は難を逃れた。燃えさかる住宅、あるいは焼け焦げた住宅や路上の車両…。周囲には見たことのない光景が広がっていた。妹家族らとは連絡が取れたものの、アレクサンダーさんやおじのイツハク・エルガラトさんの姿は確認できなかった。

 ▽迫害逃れ流転の日々

 アレクサンダーさんの父モルデハイさんと母ニナさんは1941年、ナチス・ドイツ占領下のポーランド・ワルシャワから東方へ逃れた。避難先は現在のウクライナ西部リブネ郊外の小さな集落。多くのユダヤ人やポーランド人が避難しており、2人はそこで学校の教師として働いた。1941年8月には長女エディトさんが誕生。ナチスがさらに東方に勢力を拡大する中、多くのユダヤ人が再避難を始めたが、2人は赤ん坊を抱え身動きがとれなかった。
 2022年にアレクサンダーさんが家族の歴史を振り返った映像記録では、2人の軌跡が語られている。
 ある日、ユダヤ人迫害を危惧した1人の教師がモルデハイさんの元を訪れた。モルデハイさん夫妻に偽のキリスト教徒の身分証を手配し、さらにエディトさんをかくまうことができるというタタール人の一家も紹介してくれた。2人は現在のウクライナ西部テルノピリ郊外に移り、1944年に旧ソ連軍が解放するまでそこで過ごしたという。戦後、タタール人一家の元にエディトさんを迎えに行くと、離れ離れだったエディトさんは「あなたはママじゃない」と泣きじゃくった。
 後年、このタタール人一家、マリア・アサノビッツさんとハリナ・アサノビッツさんはイスラエルから「諸国民の中の正義の人」賞を授与されている。この賞は「自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を救った非ユダヤ人」を顕彰する賞で、リトアニア・カウナスで領事代理として「命のビザ」を発給、多数のユダヤ人を救った日本の故杉原千畝にも贈られている。
 モルデハイさんとニナさんはワルシャワに戻り、1948年にアレクサンダーさんが生まれた。同じ年、イスラエルが建国された。その国へ、一家4人は1957年に移住した。

 マティさんは「多くの人の助けがなければ父は生まれていなかっただろうし、私も存在しなかった」と振り返る。

 ▽民族間の「架け橋」目指して

 アレクサンダーさんはイスラエルで農業を続ける傍ら、ホロコースト研究や教育にも従事した。特に力を入れたのが、ポーランドとイスラエルの若者を中心とした交流事業だった。1986年に初めてアウシュビッツ強制収容所跡を訪問。その後、学生らを連れてアウシュビッツを訪問するツアーも実施し、ポーランド、イスラエル両国の学生らに歴史を講義した。エルサレムのホロコースト記念館「ヤド・バシェム」のポーランド担当部署に籍を置き、ホロコーストの歴史認識を巡り対立も発生する両国の架け橋として、民族間の対話を訴えた。
 「『人に会えば、対話が生まれ、偏見が壊れていく。素晴らしいことだ』。彼はよく、そう話していた」
 ヤド・バシェムで同僚だったオリト・マルガリヨトさん(45)はアレクサンダーさんとの思い出を振り返る。「実際に会うことで人間関係ができると強調し、多くの人をひきつける講義をしていた」

 ▽かなわぬ解放、気がかりな安否

 マティさん一家は戦闘が始まった昨年10月7日以降、政府が用意したイスラエル南部エイラットのホテルに避難した。だが、自分が身を置く五つ星リゾートホテルの豪華な環境と、ハマス奇襲のトラウマやアレクサンダーさんが人質となっている状況とのギャップに苦しくなり、イスラエル南部の砂漠地帯にあるミドレシェト・ベングリオンの閑静な住宅に引っ越した。
 「10月7日の出来事は私の中ではまだ続いている」
 マティさんはそう話し、ハマス戦闘員に襲撃される悪夢を見たり、日中にも突然手が震えたりすることがあると明かす。

 一番の気がかりはもちろん、アレクサンダーさんの行方だ。昨年11月の戦闘休止期間中に解放された元人質から「アレクサンダーさんと一緒にガザの地下にいた」と伝えられた。一方でハマスは今年3月、アレクサンダーさんはイスラエル軍の空爆で死亡したとの真偽不明の映像を発表した。
 「父は数年前に心臓発作で倒れたことがあり、何種類も薬を飲んでいる状況だった。今は飲めているのかどうか分からない。一刻も早く解放しなければいけないのに、政府は人質解放を最優先にしていない」
 マティさんは、政府に対して直ちにハマスとの合意を妥結するよう求めるデモにも参加している。

 ▽右傾化する世論に絶望感

 ポーランドとイスラエルの民族間対話の取り組みを続けていたアレクサンダーさんについて、マティさんは「父はパレスチナ人との対話も可能だと言い、和平の可能性を常に話していた」と振り返る。アレクサンダーさんもマティさんもパレスチナとの平和共存を訴える政党を支持し、選挙でも投票していた。「大多数のパレスチナ人は私と同じように平穏な日常を送りたいだけのはずだ」
 一方、イスラエル国内の世論は右傾化し、2022年末から政権を運営するのは、対パレスチナ強硬派で、ユダヤ人至上主義の極右政党と連立を組むネタニヤフ首相だ。「極右政党が主張するパレスチナ人を追い出すような政策では、敵を増やすだけで、イスラエルに未来はない」と言い切るマティさんは、自身が求める国家像と違う方向に進んでいく現状に絶望感を抱いている。
 ホロコーストの悲劇を経てユダヤ人がイスラエルを建国してから5月14日で76年。建国の過程で70万人のパレスチナ人が自宅を追われるナクバ(大惨事)も発生した。現在ガザで暮らすパレスチナ人の多くも、1948年のイスラエル建国に伴い自宅を追われ、ガザへの避難を余儀なくされた難民やその子孫だ。
 「ナクバはパレスチナ人にとってはユダヤ人のホロコーストのような悲劇だった。第1次中東戦争の結果生じた悲劇であり、ユダヤ人からすれば他の選択肢はなかったが、この地で共生していくためには、ユダヤ人もパレスチナ人側のナラティブ(物語)を理解する必要がある」

 パレスチナ人との共生にイスラエルの未来を見るマティさんはこう付け加えた。
 「父も和平の可能性を信じていたが、ハマスに拘束された今、一体何を考えているだろうか」