34年ぶり東京D興行の舞台裏で苦労

 34年前に夢見た景色を現実にした。ボクシングの世界スーパーバンタム級4団体統一王者・井上尚弥(大橋)が6日、東京ドームで元世界2階級制覇王者ルイス・ネリ(メキシコ)に6回1分22秒TKO勝ち。日本中が待ちわびた歴史的興行だったが、井上陣営の大橋秀行会長にとっても34年前に夢見たものだった。会場の確保から相手選び、問題児のネリをリングに上げるまで味わった重圧。興行主として“イメトレ”さえできない苦労があった。(文=THE ANSWER編集部・浜田 洋平)

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 歴史的興行が発表された3月6日、井上と同じくらい喜びをかみしめる人がいた。

「34年かかりましたね。自分のジムの選手が4人も世界戦をして、夢を見ているようです」

 興行主の大橋会長は約20人の記者に囲まれながら呟いた。ボクシングの東京D興行は、1990年2月のマイク・タイソン―ジェームス・ダグラス戦の世界ヘビー級タイトルマッチ以来34年ぶり。当時、5万人超が客席を埋めた。現役だった大橋会長はその一人だった。

「防衛を重ねて、いつか自分も」。4日前にWBC世界ミニマム級王座を獲得したばかり。後楽園ホールで3500人を興奮させたが、東京Dの熱量は比ではなかった。「凄い雰囲気。ミニマム級とヘビー級は全然違うんだな」。現役の間に東京D開催は叶わなかった。だが、その夢は時を超え、突如現れたモンスターに託された。

 今回の東京D開催が最初に持ち上がったのは2023年初夏。7月のスティーブン・フルトン戦のチケットが爆速で売れた。「これなら行ける」。東京Dの収容人数は3倍ほど多いが、大橋会長は確信した。日程を合わせ、会場を確保。国内の大型会場は数年先までコンサートで埋まる。しかも、野 球シーズンのゴールデンウィーク。奇跡的に東京Dを押さえきった。

 ただ、興行成立までの懸念材料は山ほどあった。まずは井上が勝ち続けないといけない。そして相手を連れてくること。選ばれたのがネリだ。山中慎介戦のドーピング騒動、体重超過の違反歴により、日本人ファンにとって因縁深い。「井上尚弥の存在に尽きますが、ネリというのも大きい」と、観客動員の呼び水になった。

「設営時間など悩みは尽きません」。5月5日の東京Dは午後2時からデーゲーム。延長にもつれても間に合うように業者を手配した。「一番の問題」と、チケット転売の対策にも苦慮。ネリが再び興行を台無しにしないよう、体調管理も徹底させた。さらに万が一、体重超過などで欠場した場合に備え、リザーバーを用意。ネリにファイトマネーの“持ち逃げ”は不可能だと圧力をかけた。

公開練習でルイス・ネリ(手前右から2番目)を真剣な眼差しで見つめる大橋会長(一番左)【写真:荒川祐史】

大橋会長が武者震いできた理由「井上は私が緊張していると…」

 世界戦4試合を同じ興行に組み込むのは、これまでの3試合を超える日本ボクシング史上最多。しかも、全カードに大橋ジムの選手が登場する。「対戦相手も含め、8人も管理しないといけない」。興行1か月前、大橋会長は59年の人生で初めての感覚を味わった。

「現役時代から試合前にイメージトレーニングで自分を落ち着かせるのですが、東京Dの経験がないから想像がつかない。世界戦4試合は今までにない緊張の風景。ボクシングを始めてから味わったことがありませんでした。大橋ジムでも通算60試合くらい世界戦をやっていますが、今までにない心境。リングから控室も凄く遠くなる。毎試合往復したら倒れちゃいますよ」

 不安と同時に「やりがいがありますね」と湧き上がるものがあった。武者震いできたのは、何より「日本ボクシング史上最高傑作」と称される心強い愛弟子の存在があったからだ。

「今まではプレッシャーを楽しんでいましたけど、それができない。今回は全てが初めて。でも、それを踏まえて井上尚弥はモンスターですね。私があまりに緊張していると選手に伝染してしまうので、普段は“ドン”としておくんですけど、井上は私が緊張していると逆に『やってやるぞ』となるそうです。モンスターは違いますね。

 ボクサーとしてジムをつくって最高の瞬間。選手に感謝したい。こんな場所に連れてきてもらったんですから」

 5月5日、全選手が無事に計量クリア。ネリもリングに上げた。「正直、ホッとしてます」。かつてはストレス過多で興行直前に痛風を発症したこともあれば、計量を終え「あとは地震だけ……」と祈った日もあった。

 そんな苦労を乗り越えて開催された歴史的興行。4万3000人がボクシングの素晴らしさを生で体感した。大橋会長が現役時代に所属したヨネクラジムの米倉健司会長は昨年4月に死去。「孫弟子の試合を天国から見守ってくれると思う」。しかも今年は大橋ジム創設30周年でもあった。

 独占生配信したAmazon プライム・ビデオでは日本史上最大のピーク視聴数を記録。大橋会長は「どっと疲れが出た。試合内容も影響している。緊張のあまり家で見ていようかと思った」と冗談まじりに息をついた。ただし、夢には続きがある。

「ボクシングは魅力があるということです。凄さを見せることができた。今後も東京Dで開催する可能性はあります。ここからが始まりですよ。次の世代に繋ぐ役目もあります。今回は井上尚弥じゃなきゃ難しかった。次のスターが出ないといけない。それは自分の役目でもあります」

 歴史的興行へ、日本国民は井上尚弥に夢を見た。その陰で舞台を整える人の存在を忘れてはならない。

(THE ANSWER編集部・浜田 洋平 / Yohei Hamada)