編集部が注目している書き手による単発エッセイ連載「DIARIES」。今回はバンド「ヘルシンキラムダクラブ」のボーカル・ギター橋本薫さんです。昨年、香港・シンガポール・中国・台湾での公演を果たし、今年はアメリカでのライブに続き、初のイギリスツアーも決定。
そんな橋本さんが綴る、いつもなぜだか「遠く」なってしまう話。

 物心ついてからずっと家が遠かった。どこから遠いとかどれだけ遠いとか色々あるだろうが、とにかくずっと家が遠いのだ。人と比べて。あらゆる場所から。

 幼稚園の頃はバス通園だった。不思議だったのはなぜか最寄りの徒歩圏内の幼稚園を素通りしてバスでそちらに通っていたこと。私立の良いところとかいうわけでもなく。何かしら親の事情はあったのだろう。5歳で「遠い」デビューを果たした。

 小学校も遠かった。多分生徒で一番遠かった。学区の東の端、マンションの横の川を渡ったら別の学区ですよっていう場所。学校指定の通学路があったが、毎日違う道で下校していた。自分のフラフラ癖はこの時に染み付いた気がする。放課後友達と遊ぶ時にも、家に帰ってからまた公園や学校に集合するため、家が遠いと必然的にいつも少し遅れてしまう。先に集まった友達たちのアイドリングトークが予想以上にホットだと、乗り遅れて少し寂しい気持ちになる。門限はみんな大差ないため、缶蹴りの途中でもサッカーが白熱していても、私は家が遠い分、先に帰ることになる。盛り上がりすぎて最後までいると、帰って母親に怒られる。

 中学校も遠かった。多分生徒で一番遠かった。近隣の西側エリアの小学校の卒業生と合わさる中学校だったため更に遠くなった。遊びの集合場所は、今後どっちの小学校の生徒が覇権を握るかでエリアが変わってくる。せめて遊び場所だけは少しでも近くありたかった。私の小学校はバリバリヤンキータイプの子は少なかったのでこれはまともにぶつかってもあちらに分があると思い、先手必勝とばかりにあちらのリーダー格と思われるヤンキーを普段の自分たちの遊び場に招待し、土地の魅力をプレゼンして、見事遊びの集合場所の誘致に成功した。しかし、そのせいで治安が悪くなり、ほどなくして自らその場を去った。部活はサッカー部に所属していたが、夏休みに毎朝学校まで歩いて練習に行くのが馬鹿らしくなり、自転車で友達の家まで行ってそこから徒歩に切り替える作戦に出たが、数日後に顧問の先生に目撃されて退部になった。顧問には好かれていなかったし是が非でも勝ちたいというような野心もなかったしそのまま辞めても良かったのだが、親や担任の手前辞めても居心地が悪くなるだけだと思い、顧問に謝罪して、夏休みを丸々グラウンドの草抜きと学校中のトイレ掃除に捧げることで秋から復帰させてもらった。もちろん秋の大会には練習不足で出られなかった。

 高校は反省を活かした。受験を頑張ってどうにか家から2番目に近い高校に入学できた。もちろん自分の環境の中では最善の選択というだけであって、単純に距離や時間で言えば今までで一番遠かった。それでも生まれて初めて、一番遠い人ではなくなった。生徒の中にはバスと電車と自転車を乗り継いで田舎の方から通っている子たちもいたからだ。「遠いね〜!」といつも感情を込めて彼らに言った。高校では部活には入らず外でバンドを組んだ。自分の道楽に付き合ってもらっているという引け目もあり、練習はドラムの子の家までギターを背負って通った。ドラム担当は家がお金持ちで、ドラムを買って家に置ける財力があったが、彼は山の方に住んでいた。だから放課後は再び遠い人になった。立ち漕ぎをすると薄いバッグに包まれたギターの尻が毎回ごつんと荷台に当たり鈍い音を立てた。

 大学はまた遠くなった。埼玉の祖母の家から千葉の大学に通うことになった。学科の飲み会もサークルの新歓コンパも後ろ髪を引かれつつ終電で帰った。数ヶ月後それぞれにそれぞれの知らないコミュニティが出来上がっていた。それなら家が遠い者同士で結託してコミュニティを作りあげれば良いではないかと思うかもしれないが、家が遠い者は当然住んでいるところもバラバラだ。ご近所帝国の野望は砂上の楼閣だった。武蔵野線の先頭車両いっぱいに注ぎ込む西日が毎度目に染みた。

就職せずバンド活動を続けて…

 大学卒業後、就職はせずにアルバイトで食い繋ぎながらそのままバンド活動を続けた。大学卒業ギリギリ前に大学の近くに引っ越してきたが、バンドの活動拠点は東京だったため、またしても遠かった。CDデビューを果たしてほどなくメンバーチェンジも幾度かあり、一人また一人とオセロを裏返すようにメンバーが東京在住者へと変わっていった。練習で入るリハーサルスタジオも千葉から神保町、代々木、笹塚と西へ西へと遠ざかっていく。同業の友達と飲むのも基本的には世田谷周辺だった。既に東京に通うことは慣れっこだったが、東京に住んでいる者からしたら千葉というのはとんでもなく遠い場所だという認識のようで、飲みの席も終電を意識してか若干迎える側の肩に力が入るような気がして、普段の彼らのご近所同士の飲みの感じとは違うんじゃないかと少し寂しくなった。

 バンドも少し軌道に乗り出した頃、ようやく東京に住むことになった。それでも遠かった。東京に居ながらにして一番遠かった。世田谷から。世田谷に住まなかったのだから当たり前だ。相も変わらず私の小さな世界は世田谷を中心に回っていた。それはただの多数決なのか、誰か自分の世界の中で強力な存在感を放つ者が暮らしているからなのか。そして私にとっての遠いはあなたにとっても遠いはずなのに、どうしていつも私が遠いのか。近い人はどうやってその近さを手に入れたのか。気になる。ただ今回の人生ではどうも近い側にはなれないような気もしている。

 近いということと近づくということはけっこう遠いのかもしれない。遠くにいた私というのはつまり常に近づく側の存在だった。遠いことを嘆く反面、環境を自分で選べるようになってもなお近くにいないのはなぜだろう。近づくという行為そのものに興奮する変態なのだろうか。遠いことで心理的安全を図ろうとする臆病なのか。

 遠いということにはそんな不安も付き纏ったりするが、実はある種の自由であるとも思う。小学校の頃は誰よりも道草を食って町のことも知れたし、思い出の数も学校内のこと以上と言うと言い過ぎかもしれないけれど同じくらい下校中にある気がする。学校の目の前に住んでいた子は駄菓子屋のラインナップの変化にも気付かないし、下校途中の酒屋さんが飼っていたハスキー犬とのグルーヴも、毎日通って挨拶していた私の方が高かっただろう。犬とは仲が良い方がいい。

 大人になっても例えば電車通勤通学なら好きな本を読んだり音楽も聴ける。何より一人の時間を持てる。自分の中にある哲学を育てたり自問自答をして自分なりの答えを見つけていくという作業は一人の時間がないとなかなか十分にはできない気がする。孤独もまた人との関わりと同様に人生に欠かせない要素だ。

 散々長きに渡って遠かった身として、過去の肯定も兼ねて遠いを肯定してみたが、今年は今までの人生で一番近い人間になる予定だ。近い人になったら、中身も近い人に果たしてなるのだろうか。それともなんだかんだと理由を探して物理的には近くても心は遠い人として染まらずに過ごすのだろうか。この近い・遠いというニュアンスが実際にどれだけ自分の人生や性格に影響を与えるのかが気になっている。でも既に、人生の一山を越えたらまた遠い人になりたいイメージがあるので、本質的に遠い側の人間なんだろうなあとも思う。でも遠い方が、人と会うときに来てもらうというより会いに行くという気持ちが強くて、そんな自分は嫌いじゃないし、無駄の無い人生ってちょっと怖いから、最終的には一番ちょうど良い遠さを見つけることが人生の一つの目標かもしれないとほんのりとだけ思った。

橋本薫(はしもと・かおる)

1990年代のオルタナ・ロックやインディ・シーンからの影響を受けつつも、独特の世界観で若者に支持されるロックバンドHelsinki Lambda Club(ヘルシンキラムダクラブ)のボーカルギター。福岡県出身。B型。
Helsinki Lambda Club Official Site
https://www.helsinkilambdaclub.com/

文=橋本薫(Helsinki Lambda Club)