前編【コックピットに赤軍派が乱入しても…「よど号ハイジャック事件」日航機機長のスゴすぎた決断と操縦技術】からのつづき

 1970年(昭和45年)3月、大胆な決断と卓越した操縦技術で「よど号ハイジャック事件」を終結に導いた日航の石田機長。帰国後は“英雄“ともてはやされたが、数カ月後の愛人スクープで状況が一変する。さらに2年後には別の愛人発覚により退職を勧告されたが表向きの理由に過ぎず、裏には上層部との確執があったという。やがて“地上の人”になった元機長は事業の失敗やガン発覚などの荒波に飲まれながらも、晩年に悟りのような発言を残していた。

(前後編記事の前編・「新潮45」2009年5月号掲載「シリーズ『昭和』の謎に挑む 2・なぜ英雄が……『よど号ハイジャック』機長がたどった数奇な運命」をもとに再構成しました。文中の年齢、役職、年代表記等は執筆当時のものです。文中敬称略)

 ***

いくら、肩身の狭い日陰の身とはいえ

 横浜郊外の路線、アパートの2階に彼女は身を隠していた。最初は玄関の扉も開けてもらえなかったが、何度か通ううちに心を開いてくれるようになった。あまり物が置かれてない部屋には鳥籠がポツンとあり、九官鳥が高田の言葉を真似るようになった。

 彼女はポツリポツリ、店に客として来た石田機長と出会ったこと、いずれ離婚して籍を入れると言われたこと、事件以降は会えなくなり店にも出られず生活に困っていることなどを話してくれた。高田は何回かにわけて話を聞き、6ページもの独占手記にまとめた。

 記事は「週刊女性」7月25日号に掲載された。タイトルは「緊急特集・英雄が大事か愛が大事か 私には誰も味方がいない!『よど号』事件で石田機長との愛が崩された○○さん」。

 その手記の中にはこんな文面がある。

「しかし、現実はあまりにも私にとって酷薄でした。こんどはあっちへ行け、こんどはこっちへ逃げろ。――たらい回しのように動かされたみじめさ。

 いくら、肩身の狭い日陰の身とはいえどうしてそうまでされなくてはいけないのでしょう――世間体、会社の名誉。……

 必死にそれを守ろうとする人たちのために、私は虫けらのように振り回されたのでした」

ホテルニュージャパンに隠れた女性

 掲載号発売後、編集部には「国民の英雄を貶めるとは何事だ」と右翼を名乗る人物などから抗議電話がかかってきた。女性の身の安全を図るため、高田は、当時、知己を得ていた、各界に顔の利く、ある作詞家を頼る。

 あの有名な「月光仮面」を作詞し、近年では森進一の「おふくろさん」騒動でも話題になった、大物作詞家、川内康範氏(故人)である。高田は川内氏に頼み込み、一時期彼女をホテルニュージャパンに匿ってもらったりもしたという。

 記事の反響は大きかった。各誌も一斉に後を追った。読者は憤慨し、英雄は一転して「家庭を顧みず愛人も捨てるような身勝手な男」に転落してしまった……。

 よど号事件から2年後の昭和47年の秋、石田機長は日航を退職した。愛人騒動が冷めかけたころ、再び新たな愛人の存在が発覚。女性はクラブのホステスで、たまたま彼と同じマンションに住んでいた。

退職勧告の裏に「上層部との確執」と「新愛人」

 石田は階の違う本宅と愛人宅を行き来する生活を送っていたが、やがて愛人との間でケンカが絶えなくなる。妻をも交えた刃傷トラブルが警察沙汰になり、これが報道されるにあたって、石田機長は会社から退職を勧告されたのである。乗務するために向かった 羽田のオペレーションセンターでの、いきなりの通告だった。

「辞める必要なんてなかったけど、会社が辞めてくれというから一本気に辞めてやると言ってしまった。私に反発するパイロットもいてね。今思えば残念でした」(「週刊新潮」99年8月12・19日号)と石田機長は後に語っている。

 パイロットといえば当時は高給取りの代名詞で、花形の職業である。退職勧告は度重なる女性スキャンダルに会社側が愛想を尽かした格好だったが、その背景には、よど号事件をめぐる上層部との確執もあったようだ。

 石田機長にすれば、乗客の安全を第一に考え、犯人側の要求どおりに北朝鮮に向かったのだが、会社側は当初から国内でよど号事件を解決するつもりだった。そのため機長の行動を苦々しく思っている幹部もいたのである。

 退職後、石田機長の人生は、文字通流転の人生となった――。

19歳年下女性と岡山で自家製の漬物屋

 家族とともに大阪府岸和田市に移った石田は、知り合いの紹介で大阪の建設会社の自家用飛行機の専属パイロットを務めた。その後、札幌に単身赴任して不動産会社の専属パイロットとなった。操るのは、旅客機ではなく小型のセスナ機。客を乗せて上空から土地を見せるのが仕事だった。

 その後、岡山に戻りビーチクラフト機販売会社の営業マンになったが、いずれも一年契約であったり会社が倒産したりで、勤めは長く続かなかった。

 そして窮地の中で始めたのが、漬物屋だった。札幌時代に知り合った、19歳年下のススキノのホステスを呼び寄せ、岡山市内で自家製の漬物屋を開業したのである。漬物屋をやろうと言い出したのは女性の方だった。石田自身も東北地方出身で、漬物好きだったことから、その提案に乗ったという。

 銀行から金を借りて小屋を改造し、石田は見よう見まねで漬物を始めた。漬けるのはもっぱら彼の仕事で、女性が地元スーパーの一角を借りて販売を担当した。朝6時から夜11時まで、1人でもくもくと漬物をつくり続ける日々である。

救いの手を差し伸べたのは家族だった

「漬物石は重いし、とにかく重労働だった。軌道に乗りかけたこともあったけど、儲かる商売じゃない。資金が足りなくて、夜、種鶏場のアルバイトをしたこともありました」(「週刊新潮」同号)と、石田は語っている。

 漬物屋は約8年続いたが、赤字続きで借金は増えるばかり。やがて女性は生命保険の営業ウーマンとして働きだし、石田に別れ話を持ちだした。

 ちょうどその頃、病魔が彼を襲った。違和感を覚えていた喉に、ガン(舌ガン)が見つかったのだ。石田は阪大で手術を受けた。歯を全部抜き、舌先の一部を切り取るという大手術だった。命は取りとめたが、以後しゃべることが少し不自由になった。

 病に倒れ、女性とも別れ1人となった機長に、救いの手を差し伸べたのは家族だった。長年、家を出たきりで、家族を顧みることもなかった父親だったが、娘たちが家に戻るよう説得したのである。そうして昭和61年、石田はようやく家族の元へ戻った。

 すでに63歳になっていた。

「あの『よど号』の機長がなぜ?」

 南海電鉄春木駅を降りて北へ少し歩くと、低層の棟が建ち並ぶ府営住宅がある。岸和田競輪場に近いその府営住宅の一室に、石田は晩年、妻と次女の3人で暮らしていた。

「ああ、石田機長ね。この辺の人はあの有名な『よど号』の機長だってことを、皆知っていましたよ。近所づきあいは少なくて、言葉が不自由らしくて、あまり喋らなかったけれど。背の高い方で、病気の奥さんを助けながら、静かに暮らしていましたよ」

 団地の住人の1人はそう語る。

 岸和田に帰り体調が安定すると、石田は家族に迷惑をかけたからと、警備員のアルバイトを始めた。週6日、夜9時から朝9時まで、12時間勤務の夜警である。昼の勤務だと酒を飲んでしまうので、あえて夜警にしたのだという。

 新聞のチラシで募集を見つけ、警備会社に履歴書を持っていくと、「あの『よど号』の機長がなぜ?」と驚かれたというが、結局78歳まで働き続けた。糖尿病のためインシュリンの注射を毎日打ちながらの勤務だった。

自ら下した決断と人生に悔いはない

 その仕事も引退し、妻に先立たれてから自転車に乗り、近所の居酒屋に出かけるという日々を送っていた。行きつけの店は、駅前近くにある『Y』という小料理屋。その店のママはこう語る。

「“機長”は最後まで誇りというか、プライドを持った方でしたね。とてもお洒落で、店に来るときはいつもきれいなシャツにネクタイ、ダイヤが入ったカフスボタンをしていました。出かける前にはいつも風呂に入って、下着を取替え、靴をピカピカに磨くのだと言っていました。機長時代からの習慣だったそうです。

 おおらかだけれども、頑固なところもある、男らしい人でしたよ。よど号事件のことはあまり話さなかったけれど、一度、『もしあの事件がなかったら?』と尋ねたことがあります。すると機長は『それはそれでいいじゃないか』と言い、自ら下した決断と人生に、悔いはないと話していました。また最後まで枯れず、『いつまでも女性を好きじゃないと、男はダメだ』と言っていました。ただ飛行機が好きなので、飛行機に乗れなくなったことは残念に思っているようでしたね」

 妻が亡くなって以降、次女が勤めを辞め石田の面倒を見るようになった。冷たくされても当たり前の娘たちから親切にされることに、彼は感謝していたという。趣味は金魚を飼うことで、部屋には10個ほどの水槽があり、こまめに世話をしていた。

まるで操縦桿を握っているように両腕を

 平成8年には、よど号の機体がアメリカでVIP用のチャーター機として使用されていることが判明し、テレビ番組の企画で渡米、よど号に再会して試験飛行中に操縦桿を握るという体験もした。

 平成17年に心不全に倒れ、入院した際に肺にガンが見つかった。娘たちは本人に告知せず、自宅で療養していたが、翌年8月、83歳で亡くなった。病院のベッドで眠っているときも、まるで操縦桿を握っているかのように、両腕を上に上げる仕草をしていたという。

 石田機長は自らの後半生をどのように語っていたのか。雑誌のいわゆる「あの人は今」欄に何回か登場した彼は、「身から出た錆だからしょうがない」と語ることが多かった。

 だが、女性関係のトラブルは彼自身が言うように自らが蒔いた種だとしても、人生が転換するきっかけとなったのは、やはり「よど号」事件だった。その事件がなければ愛人がいても表沙汰にはならず、あくまでも家庭内の問題で終わっていたはずなのだ。とすれば、彼もまた紛れもなく「よど号」犯たちの被害者の1人だった。

世間は英雄に「品行」を求めた

 そしてその責任の一端は、英雄が笑顔の家族に出迎えられるという型どおりの「美談」を期待していた国民の側にもあったのかもしれない。少なくとも、日航本社はそう考え、世間体を必要以上に気にしたフシがある。

 関係者によれば、石田機長はそんなことを全く気にしていなかった。北朝鮮からの帰還後、愛人宅に戻れなかったのも、また愛人が身を隠すことを余儀なくされたのも、すべては会社の看板に傷がつかないことを重んじた日航の意向によるところが大きかったという。

 昭和という時代もまた、英雄に品行を求めていた。結果的に、石田機長はその期待に応えさせられ、自らを数奇な人生に追いこんでしまったのだ。

 だからといって、彼が不幸になってしまったとは言い切れない。共に危機を乗り越えた同僚の江崎はこんなふうに言うのだ。

「もともと石田さんは、好きな酒を我慢してまで、出世しようとするようなタイプの人ではなかった。引く時はパッと引き、わが道を行くタイプ。いろいろあったけれど、彼は彼なりに、人生を楽しんだのではないでしょうか」

 英雄の後半生がどうであれ、よど号の乗客を無事に解放させ、機体を損傷することなく無事に帰還させた機長の手腕は、いまも歴史上に消えることなく残っている。

前編【コックピットに赤軍派が乱入しても…「よど号ハイジャック事件」日航機機長のスゴすぎた決断と操縦技術】からのつづき

上條昌史(かみじょうまさし)
ノンフィクション・ライター。1961年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部中退。編集プロダクションを経てフリーに。事件、政治、ビジネスなど幅広い分野で執筆活動を行う。共著に『殺人者はそこにいる』など。

デイリー新潮編集部