佐々木朗希(千葉ロッテ)が完全試合を達成してから2年になる。あの衝撃はいまも鮮烈によみがえる。角度のある速球とフォークボールでオリックス打線を翻弄した。まったく芯に当たる気配がなかった。いまはMLBで活躍する吉田正尚でさえ3打数3三振。試合後、「(ボールと)接点がなかった。フォークがストーンと消える」と、完全に脱帽した。日本最多タイの計19奪三振。1回表、3番吉田から5回終了まで13連続三振の日本新記録。とにかく圧倒的な投球だった。6回、先頭打者としてセンターにフライを打ち、連続三振を止めた紅林弘太郎もこう語っている(日刊スポーツ)。

「バケモンでした。どうにもできないなという感じでした。(中飛は)完全にたまたま。(中略)手からボールが離れる前に振ったイメージでしたけど詰まった」

 佐々木は次の日本ハム戦でも8回までひとりの走者も許さなかった。「2試合連続完全試合」というMLBにも前例のない大記録にあと三つと迫ったが、ロッテ・ベンチは体への負担を回避するため、佐々木を9回のマウンドに送らなかった。賛否両論あった中、投手出身の私からすれば、あり得ない判断だといまも思う。今後佐々木がさらに成長しても、そのチャンスがまた訪れる可能性は低いだろう。みすみす快挙の芽を摘んだ采配が悔やまれてならない。

前日に徹夜マージャン

 歴史をさかのぼると、日本人で初めて完全試合を達成した投手は巨人の藤本英雄だ。日本中が大騒ぎした佐々木の快挙と対照的に、藤本の完全試合はほとんど注目を浴びなかったと語られている。

 達成したのは1950年6月28日、相手は西日本パイレーツ。場所が青森市営球場だったため、取材記者は4人だけ、カメラマンは一人もいなかったので、写真が残っていない。

 藤本が達成した日本初の快挙は、幻というか、さまざまな伝説に彩られている。

 野球殿堂博物館には、藤本の「完全試合記念盾」が所蔵されている。この完全試合という言葉も、達成以前にはなかったという。関係者が調べたところ、アメリカでは「パーフェクト・ゲーム」と呼んでいると分かって直訳した。

 当初、「藤本は先発予定ではなかった」、偶然の産物という逸話もある。

「先発するはずの中尾碩志が、北海道から青森へ渡る連絡船の中で寝冷えし腹を壊して投げられなくなった」とも「先発予定の多田文久三が蟹の食べ過ぎで腹痛を起こした」ともいわれる。いずれにせよ、自分の先発はないと分かっていた藤本は青函連絡船の中で、川上哲治、青田昇、監督の水原茂と徹夜マージャンに興じ、ほとんど寝ていない状態。そんな体調での快挙達成だったのは事実らしい。藤本が当時、ベースボール・マガジンの取材に答えている。

「力の問題じゃなくて、運、偶然ですね。偶然が、僕にぶつかったというだけのことです」

 試合開始は4時14分。投球数92球。1時間19分での達成だった。週刊ベースボールは後にこう記している(2005年10月3日)。

〈「後ろでワシが大声を出してやらんと、立ったまま寝てしまうんやないかと思うぐらい(の状態)」と、二塁を守っていた千葉茂は後年そう振り返っている。

 そんな藤本を援護したのが味方の好守だった。特に千葉ら内野陣は、でこぼこのグラウンド状態の中で11個ものゴロをきっちりとさばいた。この記録は藤本だけではなく、野手にとっての勲章でもあったのだ〉

少年たちは見ていた

 藤本は「日本で最初にスライダーを駆使した投手」とも呼ばれる。

 肩を痛め、打者に転向した時期もあったが、今度は足を痛めて再び投手に復帰。調整のため宇野光雄と2軍でキャッチボールをしていた48年のある日、宇野から藤本のボールがパッと右に切れると指摘され、スライダーの習得を決意した。

 それが藤本の覚醒の時だったかもしれない。MLBの名投手ボブ・フェラーらの著書を読んで研究し、独自のスライダーを体得した。48年には8勝に落ち込んでいた成績が49年に24勝、50年には26勝。その上昇機運の中で生まれた完全試合だった。だがこの日、西日本打線を抑えたのは、スライダーを狙う相手打線をシュートでうまくかわした投球だとも伝えられる。32歳、頭脳的な投球がさえての好投だった。

 それにしても、「ほとんど誰も見ていなかった日本初の完全試合」の目撃者は案外存在した。当時中学生だった詩人で劇作家の寺山修司がスタンドで見ていた。青森市内の小学生だった作詞家で小説家のなかにし礼はバットボーイを務めていたという。

 私もひとり、目撃者を知っている。大学時代、草野球で対戦した後、私を当時神宮外苑でよく知られた草野球チームに誘ってくれた団長こと音楽評論家の伊藤勝男も完全試合を見たのを自慢にしていた。幻のような藤本の完全試合は、多くの少年たちを触発し、後に各界で活躍する才人たちの背中を押す力となったのかもしれない。

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

「週刊新潮」2024年4月4日号 掲載