波乱の半生を語ったインタビュー「後編」

『ミラクル・ガール』『ZUTTO』など1980年代後半から90年代に多くのヒット曲を送り出したシンガー・ソングライターの永井真理子が、10月13日にEX THEATER ROPPONGI(東京・六本木)でライブを開催する。かつては2年連続で横浜スタジアムでのライブを成功。時代のトップを駆け抜けた“ガールポップの女王”だった永井が、ENCOUNTにその波乱の半生を語った。前編の「大学進学を前に他界した父親」に続き、後編は「デビューから現在までの37年」。(構成=福嶋剛)

 前回は、私と父親との思い出を中心にデビュー前のお話をさせていただきました。今回はその続きです。

 私が本格的に音楽に目覚めたのは短大に入学してからでした。入ったばかりの頃は、保育園や幼稚園の先生を目指していました。同時に「バンド活動をやってみたい」と思い、友人のお兄さんの紹介で中央大学の音楽サークルに入りました。先輩に誘われてバンドのコーラスを始め、コンテストで上位に進むなど順調でした。ただ、メンバーが就職活動で次々と辞めてしまい、バンドは空中分解してしまいました。

 私は「だったら1人でもやってやる」と完全にスイッチが入り、仲間を集めてデモテープを作りました。作曲家の前田克樹さんと出会い、彼と一緒に作った曲(『One Step Closer』)を含めたオリジナル曲数曲を持って、無謀にも1人でレコード会社にアタックしました。たまたまオフィスにいた女性に「デモテープを持ってきたので、聴いてください」と言って渡すと、ラッキーなことに「じゃあ、今から聴いてあげる」と言われ、近くの喫茶店で聴いてもらうことになりました。

 すると、「すごく良いね。何よりあなたの目が好き」という感想をいただきました。私の目の奥に炎が見えたそうです(笑)。そして、「ライブを見てみたい」と言われました。私は事実上のオーディションだと思い、短大の学園祭で『One Step Closer』を歌いました。

 数日後に返事があり、私のデビューが決まりました。あの時の女性は音楽プロデューサーで、のちに私の作品をプロデュースしてくださった方でした。音楽を始めたばかりの無知な学生が、わずか半年でデビューだなんて「こんな奇跡ってあるんだ」って思いました。母には「短大を卒業してからデビューするように」と言われ、その間に曲作りなど着々と準備を進めていきました。先に名古屋でラジオ番組がスタートし、デビュー前からたくさんの方に名前を覚えていただきました。保育士の資格も取り、卒業を終えて、87年7月22日、ファーストシングル『Oh, ムーンライト』でデビューしました。

 その年の8月には、学生時代から準備してきたファーストアルバムをリリースしました。アルバム名は『上機嫌』で名付け親はあの女性プロデューサーさんです。全曲、私がやりたかったことを形にできた私らしいアルバムになりました。手元にレコードが届いた夜はうれしくてレコードを抱いたまま寝ました(笑)。今でもお気に入りの一枚です。

 多くの人は永井真理子といえば、ショートカットに白のシャツ、穴の開いたジーンズという印象だったと思います。これは大学時代からの普段着で、いつもリュックにはバナナと和風ドレッシングが入っていました(笑)。『上機嫌』の撮影の時、ファッション雑誌のスタッフさんたちにおしゃれなスタイリングを考えていただいたんですが、「素のままが良い」という結論になり、私の普段着がトレードマークになりました。別におしゃれをしたい訳ではなかったけれど、歌番組に出た時はちょっと周りの人がうらやましく感じました(笑)。

 デビューしてからの5年間でたくさんの方々に私の名前と曲を知っていただき、大きな会場でのライブも経験させてもらいました。一方で、私自身の成長と共にやりたい音楽も少しずつ変化していき、新しいことに挑戦したい気持ちが湧いてきました。社内では反対意見もありましたが、自分にうそをつくのは嫌だったので、賛同してくれるスタッフとともに改革を行いました。93年にリリースした7枚目のアルバム『OPEN ZOO』は、そんな時代を象徴する作品です。賛否は分かれましたが、自分の気持ちにうそのない今を残すことができました。

 その年にバンドメンバーでギタリストの夫と結婚しました。「私の一番の味方でいてくれた人とごく自然に家族になった」という感じです。そして、小さい頃から子どもが好きだったので、息子が生まれてきてくれたことで、その後の私の音楽観にも大きな影響を与えました。出産、育児で2年間休み、復帰した時は、母としてだけでなくアーティストとしても、一回りも二回りも力強くなった気がしました。

 音楽活動15周年という節目を迎えた時、息子は小学校に上がる前だったので、「思い切って日本を離れて海外で生活してみよう」と家族で決断しました。いくつか候補地を探しながら、最終的にオーストラリアのシドニーに決め、家族3人で10年間の移住生活が始まりました。

充実していたシドニーでの10年間

 シドニーの生活はとても新鮮でした。子どもの送り迎えの車の中でラジオから流れてくる海外の音楽が心地よくて、家族との時間も充実していました。息子は英語を覚えて友達と仲良くやっていたので、私はしばらく息子に翻訳してもらっていました。でも、オーストラリアの方々は、みなさんとっても優しくて、分からないことはいつも丁寧に教えてくれました。何より家族で力を合わせていかないと生活できない土地だったので、3人の結束力が、今まで以上に強くなりました。私も毎日のお弁当作り、学校の送り迎えやいろんな行事への参加も経験し、オーストラリアが大好きになっていきました。

 音楽的にも気持ちがリフレッシュできてシドニーで『AIR』(2004年)と『Sunny Side up』(06年)の2枚のアルバムを作りました。今でも大好きなアルバムです。ところが、それから音楽活動をしばらく休むことになりました。アーティストとして迷路に入ってしまったんです。昔の曲を聴きながら過去の自分と向き合った時、自分に足りないもの、失ったもの、後悔などいろんな感情が湧いてきて、「今の自分が描きたいもの」や「自分の声」が見つけられなくなってしまいました。

 そこで音楽とはしばらく距離を置いての生活が始まりました。ずっと投稿を続けてきた公式ブログも私の誕生日とデビュー記念日の年に2回だけの更新になってしまいました。あの頃は音楽家として何も報告することがなかったんです。シドニーでの生活が10年目を迎えて、息子が高校に進学するタイミングで日本に戻る決意をしました。息子にはのんびりしたシドニーの生活だけじゃなくて、競争の激しい日本の社会も見て欲しいと思いました。私も一緒になって受験勉強を手伝い、息子は都立高校に入りました。最初は日本になじめるか心配でしたが、あっという間に同級生と仲良くなりました。そんな息子も27歳になり、日本で頑張っています。時の流れは早いものですね。

 子育ても終わり、50歳を過ぎて「もう1度、音楽と向き合ってみよう」と思いました。たまたまデビュー30周年という区切りだったこともあり、ファンのみなさんや関係者の後押しもいただいて、「最後のジャンプになるかもしれないけれど、思い切ってやってみたい」と覚悟を決めました。ただし、再出発するにあたって、「これだけは守っていこう」と思ったことがあります。「新曲を作り続けていくこと」です。今度こそ、自分の歩幅で1歩ずつ進んでいこうと決めました。

 活動を再開してみて「まだまだ自分はこれからだ」と気がついて、やる気や熱い気持ちを取り戻しました。50代なんていつでもスタートラインに立てる年齢だったんです。それを知った時、過去のどんな大きな記録よりも復活した2回目のデビューが、音楽人生で一番感動した年になりました。今まで悩んでいたことがうそのように、ツアーを回ると毎回、涙が止まりませんでした。だから「今が一番楽しい」と心からそう思います。昨年7月にはファンクラブも20年ぶりに復活しました。ファンのみなさんと近い距離で話ができるようになり、これからも面白いことを考えていきたいです。

 そして現在、新曲を制作中です。復帰してからの7年間の思いをいっぱい詰め込んだ作品になると思います。10月13日には、東京・EX THEATER ROPPONGIで新曲たちのお披露目に加え、ファンのみなさんの投票で懐かしい曲もたくさん歌いたいと思います。そして、永井真理子と言えばジャンプですよね。57歳なので昔より低いジャンプになるかもしれませんが、飛びまくりますよ(笑)。みなさんもちゃんと準備運動して遊びに来てくださいね。

□永井真理子(ながい・まりこ)1966年12月4日、静岡・御殿場市出身。短大生時代、自らレコード会社にデモテープを持ち込み、87年に『oh, ムーンライト』でメジャーデビュー。『ミラクル・ガール』(89年)、『ZUTTO』(90年)などを大ヒットさせた。短髪、ジーンズ姿にパワフルな歌で10代を中心に人気が広がり、91年には『NHK紅白歌合戦』に初出場。92年、日本人女性ソロシンガーとして初の横浜スタジアムでのワンマンライブを成功させた。93年に結婚し、96年に第1子を出産。今年10月13日、EX THEATER ROPPONGI(東京・六本木)でスペシャルライブを開催。福嶋剛