火山の噴火の予測が難しい中、過去の災害から学ぶことも備えの一つだ。江戸時代に起きた災害の犠牲者の供養を続ける地区が長崎県島原市にある。過去の教訓を現在、次の世代に引き継ぐために何ができるのか考える。

津波災害の供養塔が伝える教訓

島原市中堀町のアーケードに供養塔がある。「宝篋印塔型 流死供養塔(ほうきょいんとうがた りゅうしくようとう)」は島原市の史跡に指定されている。1792年、寛政4年に発生した津波災害いわゆる「島原大変 肥後迷惑」の翌年に雲仙にある寺の住職が建立した。

「島原大変 肥後迷惑」の犠牲者は約1万5000人にのぼり、当時日本史上最大規模の火山災害となった。大潮だったことも重なり、被害が大きくなったともいわれ、供養塔が立つこの場所には溺れ、流れてきた死体(流死体)が打ち寄せられたと考えられている。

道路拡幅計画にあたり、島原市教育委員会は絵図などを調査し、建立以来、移設された可能性はないことを確認した。現在の場所にあることに史跡としての価値があると判断され、今後も供養塔を保護するため市は土地を購入した。

島原市 古川隆三郎市長:災害を伝えていくためには科学ではなく、人々の言い伝えって大切だと思う。供養塔がこの場所で何があったのか未来の子供たちが確認できる場所であってほしい

供養塔の意義を地域で伝える

これまでに多くの自然災害を調査し、災害伝承碑の登録や保存、利活用に関する研究を進めている長崎大学の高橋和雄名誉教授は、島原市の姿勢を高く評価している。

長崎大学 高橋和雄名誉教授:道路拡幅や区画整理で災害碑が隅っことか、公園に移転されるケースが圧倒的に多い。生活の中に溶け込んでこそ初めて意義がある。島原市がここに残したことは評価される取り組み

現在の中堀町一帯は当時、島原内港の船着き場で城下随一の繁華街だったと伝えられている。今も、毎年5月1日に200年以上も前の江戸時代の災害の犠牲者に思いをはせながら、供養祭を行っている。新型コロナウイルスの拡大で外出の自粛が呼びかけられた時期も途絶えることはなかった。

供養塔奉賛会 隈部政博会長(81):この辺りは昔は浜辺だった(多くの津波犠牲者が打ち上げられ)立派な供養塔を作っていただいたので町内有志が集まって供養祭を続けてきた

雲仙岳災害記念館 杉本伸一館長:供養塔があって地域の人が集まって、何のために立っているのかを認識しあうことが防災につながっている

災害伝承碑の重要性と今後の取り組み

供養塔は他にも島原半島内に多くあるが、地元の人にその存在すら知られないままのものもある。島原藩が建立した「島原大変」の犠牲者を弔う7カ所の碑のひとつ(流死菩薩供養塔)が島原市南崩山町に残されているが、場所もわかりにくく、地域で供養されている様子もない。

杉本さんは東日本大震災の後、被災地に6年間暮らして、三陸の復興のため力を尽くした。省みられることなく埋もれている災害碑に思いは複雑だ。

雲仙岳災害記念館 杉本伸一館長:これより下に家は建てるなと(碑に)書いてあるがその下にたくさん家が建って東日本大震災の津波で全て流され大きな犠牲が出た場所もある。だから碑を建てるだけでなく伝えることがプラスされないと、当時の碑を建てた人たちの思いは伝わらない

国土地理院はこうした「自然災害伝承碑」を登録しデータベース化して公開する取り組みを進めている。全国で2111基、県内では27基が登録されている。(2024年4月25日現在)

長崎大学 高橋和雄名誉教授:過去と現在と将来を結ぶような取り組みをしないと本格的な活用にはならないと思っている。国土地理院は入り口を作った。活用のためには色々な工夫と努力が必要

高橋教授は九州各県の全市町村を対象に災害伝承碑についてアンケート調査を実施。その上で「防災部局と博物館や図書館などを所管する教育委員会との連携が必要」と考えている。

また雲仙岳災害記念館の杉本館長は、関係機関の連携に加え、何があったかを伝えるためには災害記念館の役割は大きいとしている。

雲仙岳災害記念館 杉本伸一館長:教育委員会とか歴史関係の団体と連携しながら拠点としては雲仙岳災害記念館が担うべき役目。この地で起きていることについては(平成の噴火に限らず)積み重ねていき、ちゃんと伝えていくことは記念館の仕事だと思う

江戸時代の地震と津波、平成噴火の火砕流と土石流。数百年後にまで教訓を伝えていく努力が、行政や住民に求められている。

(テレビ長崎)