堺市の交通課題

 大阪府の中南部に位置する堺市は、府内第二の政令指定都市である。そんな同市は、その規模の割に交通網に大きな問題を抱えていた。

 南北にJRや南海など複数の鉄道路線が走るにもかかわらず、東西を結ぶ鉄道はなく、バスだけが頼りになってきたのだ。これを改善しようとする東西交通の路線計画は、実に

「100年」

も前から立ち上がっては消えることを繰り返してきた。

 1920(大正9)年には南大阪電気軌道(のち南大阪電気鉄道)が南海本線の堺駅前付近から奈良方面へ向かう路線を計画し、鉄道省から免許も得たが、まったく進展することなく立ち消えとなった。

 戦後、臨海工業地帯が発展した時期にも東西を結ぶ鉄道の建設が言及されたが、やはり実現には至らなかった。このように、堺市では長年にわたって市民から東西交通の整備が強く求められてきた。

・JR阪和線
・南海本線
・阪堺(はんかい)電軌阪堺線

などの南北方向の鉄軌道網が発達する一方で、東西方向の公共交通は脆弱(ぜいじゃく)なままだった

 しかし、堺市がようやく打ち出した次世代型路面電車(LRT)計画は、市民の長年の要望とはまったく異なる方向から具体化された。その計画とは、堺市が推進する

「東西鉄軌道計画」

である。中心市街地と臨海部を結ぶ交通網の整備を目指した計画である。当初は新交通システムとミニ地下鉄が検討されたが、2003(平成15)年にLRTの採用が決定した(『日刊建設工業新聞』2003年4月21日付)。

 しかし、この時点ではまだ構想段階であった。

東西鉄軌道計画及び阪堺線(画像:堺市)

市民ニーズとのズレ

 LRTの具体化が加速したのは、2007(平成19)年にシャープが臨海部に大規模な液晶パネル工場の建設を決定したことがきっかけだった。

 これにより、工場へのアクセス需要が見込めるようになり、東西鉄軌道計画は急速に前進していく。しかし、この計画は、市民が求めていた市内移動を円滑にする路線とは、まったく異なるものだった。ここに、老朽化が進み存続の危機にひんしていた阪堺線の再生問題が絡んでくる。

 阪堺線の堺市区間(7.9km)の1日乗降客数は、1965(昭和40)年の約5万4100人から2005年には約6800人まで激減しており、阪堺電気軌道は大阪市区間を残して堺市区間の廃止を検討するまでに至っていた(『毎日新聞』2006年12月13日付朝刊)。

 これに対し、堺市はLRTの事業者公募に応じた南海電気鉄道グループの提案を受け、2010年度開通予定のLRTとの相互乗り入れによって阪堺線の存続を図ることを決めた。こうして当初からズレていた市民ニーズと行政の思惑が、阪堺線の再生問題を機に奇妙な形で合体してしまったのである。

 本来、堺市で長らく求められていたのは、

「JRと南海の鉄道駅とをつなぐ路線」

だった。この目的を達成するには、阪堺線を東西に延伸するのがもっとも現実的なプランだったはずだ。

 ところが、それが臨海部の開発を目的とした東西鉄軌道計画と合体してしまった。こうして、市民が長らく求めていた路線計画は、都市開発や事業者の事情に引きずられる形で肥大化の一途をたどっていくのである。

 計画の肥大化によって、事業費は巨額になった。市の試算では、東西鉄軌道の概算事業費は総額約425億円に上るとされた。内訳は、2010年度末の開業を目指す早期開業区間が約85億円、延伸予定区間が約280億円、阪堺線へのLRT乗り入れに伴う整備費が約60億円だった(『朝日新聞』2009年2月3日付朝刊)。

阪和線(画像:写真AC)

堺市の財政危機

 しかし、当時の堺市の財政状況は非常に厳しいものだった。報道では

「福祉関連や借金返済の経常経費が高い水準にある中で、財政危機に陥る可能性がある」(『朝日新聞』2005年9月22日付朝刊)

との指摘もあったように、別会計を含めれば市全体の収支は実質赤字に陥っていた。にもかかわらず、当時の堺市では東西鉄軌道以外にも、阪神高速大和川線の建設負担や堺東駅前の再開発など、財政規模を大きく上回る大型公共事業が同時多発的に計画されていた。

「埋立地に整備されるサッカー・ナショナルトレーニングセンターは67億円、新たに基本設計費が計上された文化芸術ホールも68億円に上る」(『読売新聞』2008年2月27日付朝刊)

という状況だった。

 加えて、シャープの液晶工場誘致に際しては、府市合わせて約768億円もの巨額の補助金支出や税の減免が行われる予定で、これも大きな財政負担となることが懸念された。本来は市に収入をもたらすはずの工場立地が、逆に財政を圧迫する皮肉な結果となっていたといえる(『読売新聞』2009年7月24日付朝刊)。

 こうした状況のなかで、東西鉄軌道計画の財政的な疑問は日増しに大きくなっていった。事業の必要性や採算性への懸念が高まる一方で、市の体力から見れば明らかに過大な投資計画は、到底市民の理解を得られるものではなかった。財政規律を乱すリスクを冒してまで事業を強行することへの批判が急速に高まり、東西鉄軌道計画は行き詰まりを見せ始めたのである。

 さらに計画が拡大を続ける一方で、市民への説明は後回しにされてきた。結果、市民の反発は極めて強いものとなった2009(平成21)年2月に開催された住民説明会では

「多額の事業費への懸念や工事による生活環境への影響を心配する声が上がり、地元の理解が得られない状況となった」(後述『阪堺線存続の歩みと東西鉄軌道計画の中止について』より)

という意見が出た。沿道の商店主からは、工事にともなう荷さばきへの支障や売り上げ減への懸念も示された。また、過去の区画整理事業の苦い経験から、

「道を整備すれば人が来ると市は言ったが、街は寂れた」
「LRTができたら人が来る根拠はるのか」

といった声も上がった。長らく希求されていた東西路線にも拘わらず、その計画の不透明さに市民がことごとく反発したのである(『読売新聞』2012年5月30日付朝刊)。

LRT計画中止

 こうした反対の声を背景に、2009年9月の市長選では、

「費用対効果が明らかではない」

としてLRT計画の中止を公約に掲げた竹山修身候補が当選する。市民の民意を反映し、東西鉄軌道計画は白紙撤回されることとなった。市は後に、

「LRTを導入することが中心部のにぎわいに貢献することを十分説明できなかった。それが市民の合意形成に失敗した要因」(後述『阪堺線存続の歩みと東西鉄軌道計画の中止について』より)

と総括せざるを得なかった。

 巨額の事業費に対する懸念、生活環境への影響、にぎわい創出の実現性への疑問――。拡大を続ける計画に対し、市民の反発が次第に強まっていった。行政と市民の意識のずれが決定的になるなかで、東西鉄軌道計画は中止へと追い込まれていったのである。市民不在のまま突き進んだ計画は、最後には市民の手で葬り去られる結末を迎えたのだ。

 東西鉄軌道計画の頓挫は、堺市の公共交通の未来に暗い影を落とした。計画が頓挫したことで、阪堺線が廃止の危機に陥ることになったのだ。これは、一般市民が中心となった存続、活性化に向けた粘り強い活動により、2010年9月に堺市が10年間の存続支援の方針を決定し、現在も路線は維持されている。

 その後、2019年の市長選で選挙公約に「東西交通網の計画に着手」と明記した永藤英機市長が当選し、市は改めてLRTも含めた複数の交通手段の検討を開始、現在は、南海本線堺駅と南海高野線堺東駅を結ぶシャトルバスを、電動化などに対応した次世代都市交通(ART)に切り替えることが検討されている。

宇都宮市ライトレール(画像:写真AC)

教訓残した失敗

 この失敗は、交通政策の在り方に多くの“教訓”を残した。

 いかに理想的な計画でも、市民の理解と納得が得られなければ前には進めない。行政には丁寧な説明と市民の声に真剣に耳を傾ける姿勢が何より求められる。同時に、交通政策をまちづくりや都市の将来像と一体的に構想し、戦略的に進めていく視点も不可欠だ。

 21世紀の交通として全国で構想が進むLRT。2023年開業した宇都宮市ライトレールは、市民の移動手段を大きく変えている。しかし、一方で計画が具体化したものの立ち消えとなった事例も多い。堺市の挫折は、さまざまな教訓を残している。

 阪堺線存続の歩みをまとめた池田昌博・野木義弘・ペリー史子の3氏による論文「阪堺線存続の歩みと東西鉄軌道計画の中止について―市民活動から見えてきたものとこれからの課題―」(『大阪産業大学人間環境論集』20)では、こう記している。

「堺市が政令市に相応しいまちづくり戦略,総合交通政策の一環として,全庁体制で市内交通ネットワークの検討に再着手し,具体的なアクションプログラムを市民・公共交通利用者と事業者と一体となって取り組むならば,次の四半世紀はコロナ禍を乗り越えた次世代に誇れる人と環境にやさしい、文字通り、自由自治都市「堺」が実現するものと考える」

 公共交通は人が住む街づくりの“基礎”である。まずは全員参加の議論がなければならない。