東京から大阪へ転居

 私(スズキナオ、フリーライター)は大阪に住んでフリーライターの仕事をしている。大阪に引っ越してきたのは10年ほど前のことで、それまでは長らく東京を生活の拠点にしてきた。

 30代の半ばまで渋谷のIT企業に勤めていたのだが、家庭の事情もあり、心機一転、会社を辞めて大阪に転居し、フリーライターとして生きていこうと決意したのだった。

 そして大阪へやって来たものの、フリーライターと名乗ったところで仕事がいきなり舞い込むわけでもなかった。ここ数年ほどでようやくコンスタントに仕事をもらえるようになったが、大阪に来たばかりの頃は、とにかく暇で暇で仕方なかった。

 大阪の街並みや文化は新鮮で楽しいのだが、仕事がなく心細い日々を過ごしていると、今まで長く暮らした東京が恋しくもなる。東京へ行きたいが、そうとなれば当然交通費がかかる。

 新幹線に乗れる身分ではないしな……と、検討した末にたどり着いたのが

「高速バス」

という交通手段だった。

深夜の高速道路(画像:写真AC)

夜行バスの便利さ

 大阪〜東京間では複数のバス会社が高速バスを運行しており、便数も豊富である。各社が趣向を凝らしていて、座席の間隔がゆったりしてくつろぎやすい高級路線のバスもあれば、逆にとにかくリーズナブルな価格を売りにしているものもある。

 私にとってうれしいのは、当然リーズナブルな価格帯のバスである。夜遅くに出発して早朝に向こうに着くような、いわゆる“夜行バス”は特に運賃が安いのだった。

 平日の夜に出る四列シートのバスを選べば、

「2000円台」

で大阪から東京まで行くことができた。私にとって、これほどありがたい交通手段はない。結果、大阪に越してから数年の間に少なくとも100回以上は高速バスに乗り、東京と大阪を行ったり来たりすることになった。

 ちなみに、私が最も頻繁に高速バスを利用していたのはライターを始めたばかりの10年前からの5年間ほどなのだが、2024年になった今、高速バスの運賃をざっと検索してみると、燃料費の高騰もあってか、どこもだいぶ値上がりしているようだ。とはいえ、平日に限って検索してみると片道3000円を切るバスもまだ見つかる。

深夜のSAで休憩する夜行バスのイメージ(画像:写真AC)

乗客の静寂と緊張感

 夜の高速バスは

「特殊な乗り物」

だと思う。例えば、22時半とか23時に梅田を出発して、朝の7時か8時かに東京に着く。その8時間〜10時間近くを、ほとんどの乗客は静かに過ごすことになるのだ。

 いや、もしかしたら最近の高級路線のバスであれば、個室のようなシートが用意されていて、そこで思い思いの過ごし方ができたりするのかもしれないが、私がよく乗っていた四列シートのバスは、隣の席にも乗客がいるし、もちろん通路を挟んだ向こうにも人が乗っていて、お互いが常に周囲に対して気遣いをする必要があったのだ。

 たいていの場合、出発してからしばらくすると車内は完全消灯となり、そこからはひたすら安静に過ごすことになる。スマートフォンを操作すればその光が周囲の眠りを妨げるし、イヤホンやヘッドホンで音楽を聴きたければ音漏れにも注意が必要だ。仲間と一緒に乗っている場合なども、当然ながら私語は慎まないといけない。

 途中、数回のトイレ休憩はあるが、基本的にはその状態が到着までずっと続くわけである。ぐっすり眠って起きたらもう目的地……となれば最高なのだが、なかなかそうはいかない。体を十分に伸ばせるわけでもない窮屈な環境で、隣には見知らぬ人が座っていて、慣れない状況に目がさえて眠気が一向にやってこなかったという経験が私には少なからずある。

 暗い車内でただ目を閉じて、できることといえば“考え事”ぐらいしかない。といっても、東京に着いたら何を食べようとか、誰に会おうとか、そういった具体的な考え事はすぐに終わってしまう。むしろ、考えるべきことが何もなくなってからが

「勝負」

だ。

夜行バスの車内イメージ(画像:写真AC)

過去の記憶をたどる試み

 私がよくやっていたのは、

「自分が生まれてから今までの記憶」

を順を追ってできるかぎり詳しく思い出す、という試みだった。

・保育園に通っていたときのこと
・小学校に入学したばかりの頃のこと

そんなことを頑張って思い起こしていると、いつしか眠気がやってきてくれる。

 このような夜の高速バスでの時間を、ストレスに感じる人も多いかもしれない。しかし、多少強引に考え方を変えてみれば、現代においてスマートフォンやパソコンにタッチせず、

「ただ目を閉じて過ごす時間」

は非常に貴重なものだともいえないだろうか。こんな機会でもなければ、自分の人生をじっくり見つめ直すようなことはなかなかない。また、夜行バスを利用するメリットは何も価格だけではない。うまく眠れるのであれば、

「睡眠時間を丸ごと移動時間に充てる」

ことができるわけである。夜遅くまでたっぷりと時間を使い、車内で睡眠をとり、朝、目的地に着いたらすぐに新しい1日をスタートすることができる。上手に活用すれば、これほど旅の時間を目いっぱい満喫できる交通手段はほかにないのではと思う。

 誰しもにおすすめできるわけではないが、面白い経験だと思って、一度は夜の高速バスに乗ってみてほしい。