農村から世界へ、王伝福の軌跡

 中国の電池メーカーが驚異的な成長を遂げ、世界最大の電気自動車(EV)メーカーとなった比亜迪(BYD)。その飛躍的な躍進は世界に衝撃を与えた。同社の創業者・王伝福氏は卓越した洞察力とユニークな経営手腕を発揮し、この成長を導いた。同社は、電池事業で培った「人とテクノロジーの融合」の生産方式を武器に自動車業界に参入。2005年に発売した「F3」は瞬く間に中国市場を席巻。各国の政府の後押しもあり、急成長を遂げた。本連載では、BYDの急成長の要因を分析し、その実力を明らかにしていく。

※ ※ ※

 中国のEVメーカー・比亜迪(BYD)の快進撃が続いている。日本国内で各所に正規ディーラーがオープン、テレビCMも盛んに行われている。そんな企業を率いるのが、創業者の王伝福氏である。1995年に工業団地の片隅で始まった会社を、瞬く間に世界屈指の企業に成長させた、この人物の人となりからBYDの来歴をみていこう。

 王伝福氏は1966年2月、中国安徽(あんき)省の農村で生まれた。当時農村は荒廃しており多くの人々は食べるにも着るにも事欠き、やっと生計を立てていた。両親はともに農民で、高等教育は受けていなかった。家族は「吃飽穿暖(食べるに飽き、着るにあたたかい)」ことだけを願い、ぜいたくとは無縁の生活を送っていた。そんな王氏に、人生最初の試練が訪れる。13歳の時に父親を、15歳の時に母親を亡くしたのだ。

 両親を立て続けに失った王氏は、家計を支えるために学業をあきらめ、働くことを考えた。しかし、兄の王伝方氏に止められた。兄は弟の教育を何としても継続させる決意を固めていたのだ。兄のサポートを受け、王氏は勉学に励んだ。兄は『孟子』の

「天将降大任于斯人也、必先苦其心志(天は人に大仕事を任せるとき、必ず大苦境に陥らせる)」

の一節を引用して、弟を諭したという。

 努力が実を結び、王氏は1983年に中南工業大学(現・中南大学)冶金物理化学科に進学した。在学中は、勉学に力を入れるだけでなく、学生活動やボランティアにも積極的に参加した。卒業後は北京有色金属研究総院の研究員となり、そこで電池の研究開発に携わった。

王伝福氏の故郷・中国安徽省の位置(画像:OpenStreetMap)

250万元で独立、20人からの挑戦

 研究者としての道を歩み始めた王氏だったが、再び人生の岐路に立たされる。改革開放の流れのなかで1993年、研究所が深センに設立した比格電池有限公司の総経理に任命されたのだ。

 それから2年後の1995年、王氏は研究所を辞めて独立することを決意する。電池業界の巨大な利益の可能性を見いだしたが、国有企業では十分に能力を発揮できないでいた。そこで、王氏は辞職して独立創業することを決意したのである。

 しかし、この事業を立ち上げるには多額の資金が必要だった。王伝福は実業家のいとこである呂向陽のもとを訪れ、250万元の創業資金を借りたいと申し出た。呂は長年勤めていた中国人民銀行を辞めて起業し成功を収めていた(現在は投資会社を経営)。

 最初、呂は同意しなかった。というのも当時、比格電池の総経理というのは安定していて将来性もある仕事だと考えられていたからだ。呂は王伝福がそれを放棄するのは残念だと考えており、また創業が成功するとは限らないとも思っていた。しかし最終的に、王伝福は呂の心を動かす理由を述べて説得に成功したのである。

 1995年2月、王氏はBYD社を設立し、独立創業の第1歩を踏み出した。創業時のBYDの従業員はわずか20人ほどで、深センの工業団地の一角を借りて小さな工場を立ち上げた。製造したのは、当時需要が高まっていた携帯電話用のバッテリーであった。

BYDのウェブサイト(画像:BYD)

独自生産ライン開発

 当時、この市場においては日本メーカーが非常に強力だった。しかし、資金に乏しい王氏は、日本メーカーが使っているような製造設備を購入することができなかった。そこで、王氏は、独自の生産ラインを開発した。本来はフルオートの機械が用いられる工程を、半自動の人力生産ラインに分解し、各工程を数個の作業場に分け、熟練工と彼らが手にする数元の治具によって製造するというものだ。これは

「小米+歩兵銃」

方式と呼ばれた。「小米(人海戦術)」と「歩兵銃(安価な設備)」を組み合わせたものである。由来は、中国共産党が日本軍と国民党に対して戦った抗日戦争と解放戦争の時期、物資が非常に乏しい状況下で自給自足を続けながら、革命を成就した際の中国共産党のスローガンのひとつ「小米(アワ)を食べ、小銃を手に」に由来する。自給自足の生活をしながら武装闘争を続けるという意味だ。

 この方式には以下のようなメリットがあった。

・初期投資を大幅に抑えられる:高価な自動化設備を購入する必要がない。
・柔軟性が高い:需要に応じて人員を調整できる。
・品質管理がしやすい:各工程を細分化し、熟練工が担当することで、不良品の発生を抑えられる。

 この方式は、当時の中国の労働集約型産業の特徴を巧みに活用したものであった。こうして、BYDは低コストで高品質の電池を大量生産することが可能となり、日本企業をはじめとする競合他社に対して大きな価格競争力を持つことができた。

 その結果、1997年にはBYDは中国最大、そして世界第4位の電池メーカーにまで急成長を遂げた。さらに2003年には、日本の三洋電機を抜いて世界第2位の「電池王」の座に就いたのである。

2024年5月23日発表。主要メーカーの電気自動車(BEV/PHV/FCV)販売台数推移(画像:マークラインズ)

電動化への先見性

「電池王」となった王氏だったが、その野心はそれだけにとどまらなかった。2000年代初頭、王氏は自動車産業への参入を決意する。

 その理由はEVの将来性を見据えてのことだった。自動車工業はある段階まで発展すれば必然的に電動化の方向に向かうと考えた。BYDは先進的な電池および制御技術を有していたため、EVを主要な方向性とし、自動車産業に参入することを決意したのだ。

 しかし、自動車産業への参入は、当初から多くの批判や反対の声にさらされることになる。2002年7月に上場したBYDの株価は大きく下落し、時価総額は一時27億香港ドルも失われたという。

 王伝福は多くの反対意見を押し切って西安秦川自動車工場を買収し、2003年に吉利汽車に次ぐ2番目の民営乗用車企業となった。2008年には、

「プラグインハイブリッド車(PHV)」

の量産を開始している。当時、EVはまだ一般的ではなく、インフラ整備も不十分だった。そのため、EVに特化したBYDの戦略を疑問視する声は多かった。それでも、王氏はEVの将来性を信じて疑わなかった。王氏は

「人類が今日まで発展してきたからには、消費のあり方に革命を起こすべきだ。われわれはエネルギー革命は必然だと考えている。今は百年に一度のチャンスなのだ。われわれは一気呵成(かせい)にこの電動化を最後まで推し進め、革新的な技術で人々の生活を改善し、人類のグリーンな夢を実現するつもりだ」

と語っている。つまり、当初から、現在のEVへの転換を確実に予見していたのである。

 結果は徐々に明らかになってきた。世界的な金融危機の最中だった2008年当時にもBYDは確実に業績を伸ばし「株の神様」と呼ばれる投資家のウォーレン・バフェット氏から多額の投資も受けている。

4月12日より全国で放映開始されたBYDのCM(画像:BYDジャパン)

グリーンな夢への挑戦

 さらに、EV普及のために、王氏が積極的に働きかけたのが、都市の

「公共交通の電動化」

戦略であった。公共交通の電動化を推進し普及を図っていくという戦略である。これは当時の深セン市当局の政策ともマッチしていた。こうして、当局の奨励と支援の下、EVタクシーとバス(ほぼBYD製である)が従来のガソリン公共交通機関に徐々に取って代わり、深センの街を走るようになった。これは他の地域での新エネルギー車発展のための

「深センの経験」

を提供することになった。こうして、早くからEVへの転換、都市の電動化を予見した結果は明らかである。2023年の世界での販売台数は300万台を超え、2年連続で世界の新エネルギー車販売台数1位を獲得している。王伝福の目標は、BYDを世界のあらゆる分野の新エネルギー車のリーダーとすることだ。

 王氏は、技術とイノベーションを何よりも重視していた。BYDの急速な成長は、この理念に基づく不断の努力の結果だといえる。実際、この20年で、研究開発チームは20〜30人から

「2000倍以上」

に増えた。いま、深センにあるBYDの本社は東京ドーム約50個分の敷地を持つ。従業員の移動のためにモノレールも走る敷地内には、技術研究開発チームだけで9万人を超える人材が働いている。研究拠点の数も11に達する。このことは、いかにBYDが技術とイノベーションに根ざした会社であるかを示している。いまだ、

「中国 = 安かろう悪かろう」

を疑わない者は絶えないが、それは遠い過去の話だ。

 BYDの創業から27年。王伝福氏の逆境を乗り越える挑戦は、まだ終わっていない。むしろ、世界のEV市場を席巻するために、新たなステージに突入したといえるだろう。王氏の「グリーンな夢」の実現に向けて、BYDの挑戦はこれからも続く。