現在の映画の世界的な最前線を理解するためにも、ぜひ知っておきたい伝説の映画作家がいる。それが、37年の短い生涯で40本以上の監督作を残し、数多くの戯曲も執筆し、俳優や舞台演出家としても活躍し、自らの生命を燃焼し尽くすような濃厚さで駆け抜けた西ドイツ出身のライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(1945年生〜1982年没)である。

古くからファスビンダーを知る者にとっては、破天荒でスキャンダラスな天才といったイメージがまず浮かんでくるだろう。酒や薬物に溺れ、バイセクシュアルでもあった彼は、自分の作品の俳優たちと私生活でも次々と関係を持ち(アングラ演劇時代の1968年に結成した劇団「アンチテアター」以来、ファスビンダーは疑似家族的な創作グループの中心に自らを置いていた)、激しい愛と憎しみに悶えながら、最後はコカインの過剰摂取で急死した。いまの世であれば超弩級の炎上必至な人物像――これも確かに事実には違いないが、しかし彼が遺した幾多の作品には、人間という矛盾に満ちた生きものの欲望や宿業がほかに類を見ない純度で刻まれている。ファスビンダーはなにより己自身の闇と向き合い、エゴイズムや醜さ、怒り、孤独、堕落、絶望などを赤裸々にえぐり出しながら、それでも人生に時折訪れる儚い美の瞬間をドラマに焼きつけていった。特に社会の主流から疎外された周縁のマイノリティたちを登場人物として取り上げ、移民やLGBTQ+といった主題も先駆的に装填していた。

映画史のうえでは、ファスビンダーは「ニュー・ジャーマン・シネマ」の代表選手として良く紹介される。ニュー・ジャーマン・シネマとは、1960年代に勃興した当時の若い映画人たちによる新しい波を指すムーヴメントであり、ファスビンダーは1970年代に国際的な脚光を浴びた第二世代に当たる。最近『PERFECT DAYS』(23)が話題になったばかりのヴィム・ヴェンダースや、ヴェルナー・ヘルツォーク、フォルカー・シュレンドルフといった人気監督たちがこの勢力として台頭し、一般には世界的な知名度を得た第二世代こそがニュー・ジャーマン・シネマの騎手として認識されているようだ。作家的な個性は各々バラバラだが、とりわけナチス第三帝国崩壊の直後に生まれ、戦後ドイツの混沌を個的な痛みとして体現する傑作群を発表してきたファスビンダーは象徴として語られることが多く、彼の遺作となった『ケレル』(82)を持って、ニュー・ジャーマン・シネマは終焉を迎えたとする見地もあるほど。

さて、本稿では強烈な個性に貫かれたファスビンダーのフィルモグラフィーから、Amazon Prime Video チャンネル「スターチャンネルEX」で見放題配信中の作品に合わせて、合計4作をご紹介。この異能の映画作家の作風やキャリアの要所をつかめるような、入門編には格好のラインナップになっている。

■戦地に夫を送った女性の波乱の半生を描く『マリア・ブラウンの結婚』

まずはファスビンダーの“メジャーブレイク作”と呼べる1979年の『マリア・ブラウンの結婚』。第29回ベルリン国際映画祭銀熊賞に輝き、ニュー・ジャーマン・シネマの金字塔の一つとして知られる名作だ。主演はハンナ・シグラ。80歳になった現在はヨルゴス・ランティモス監督、エマ・ストーン主演の第80回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞や第96回アカデミー賞4冠に輝く『哀れなるものたち』(23)へ、マーサ役の出演でおなじみの彼女だが、初期からのファスビンダー作品の常連であり、同座の顔と言えるアイコンの1人。代表作となった本作の演技では先述のベルリン国際映画祭で女優賞を獲得している。

ハンナ・シグラ演じる主人公マリア・ブラウンは、連合軍の空襲が続く敗戦間近のドイツで愛する男性と結婚式を挙げた女性。しかし一日足らずの夫婦生活だけで、夫ヘルマン(クラウス・レーヴィッチェ)はすぐに出征。そして戦線に戻ったまま行方不明になってしまった。戦後、マリアは勤め先である占領軍専用のクラブで出会った黒人の米兵ビル(ジョージ・バード)の愛人となるが、やがて思いがけぬ運命の皮肉が訪れる…。ナチス・ドイツ政権末期の1943年から、サッカーのワールドカップでドイツが優勝を果たした1954年まで、約10年間のドイツ戦後史を背景に、激動の社会に翻弄された1人の女性の波瀾万丈の運命が描かれる。全編は極めて上質のメロドラマに仕立てられており、これはファスビンダーが多大な影響を受けたドイツ出身のハリウッド監督、『愛する時と死する時』(58)や『悲しみは空の彼方に』(59)などのダグラス・サークの映画術を独自の大作路線に応用、昇華した好例だ。ラストシーンの鮮烈さも只ならぬ余韻を残す。

また本作は「西ドイツ三部作」と呼ばれる連作の始まりであり、ハンナ・シグラがナチス・ドイツの国民的歌手に祭り上げられる歌姫に扮した『リリー・マルレーン』(81)、ナチス時代の大女優ジビレ・シュミッツを主人公のモデルにした『ベロニカ・フォスのあこがれ』(82)と続く。ファスビンダー映画のなかでも必須で押さえておきたいトリロジーだ。


■年齢差や境遇の違いを超えた美しく残酷な愛の物語『不安は魂を食いつくす』

続いて比較的初期の作品のなかで、いまこそ格別に再評価したい1974年の傑作『不安は魂を食いつくす』。保守的な町で巻き起こる「年の差」と「身分違い」(階層差)の恋愛を描いたダグラス・サーク監督の『天はすべて許し給う』(55)をベースにしたもので、より下層に渦巻くラディカルな設定を敷いて主題を鋭利に問い詰めた。トッド・ヘインズ監督の『エデンより彼方に』(02)も同じサーク作品を参照したものだが、当然ヘインズにはファスビンダーの偉大な先行作を踏まえる意識も大きくあっただろう。

物語はある雨の夜、ジュークボックスを置いている安酒場での1組の男女の出会いから始まる。掃除婦として働く未亡人の白人女性エミ(ブリジット・ミラ)と、モロッコから来たアラブ系の若い出稼ぎ労働者の青年アリ(エル・ヘディ・ベン・サレム)だ。あっという間に心惹かれ合い、肉体を重ね、結婚まで決める2人。だが3人の子どもはみんな結婚して独立し、「ばあさん」とまで呼ばれているエミと、彼女の20歳以上年下で、異文化に慣れずドイツ語のおぼつかない移民のアリという異色のカップルに対して、周囲の人々は酷い嫌悪の態度を向ける。

戦時中はナチス党員だったと無邪気に口にし、かつてヒトラーが通ったという高級レストランにアリを連れ添って出掛けるエミは、おそらくドイツ戦中派のリアルな庶民像のサンプルケースでもあるだろう。そんな彼女が年齢や肌の色が異なるアリと恋におちたことで、大衆社会の差別や偏見という、これまで意識外の領域だった苛烈な政治的抑圧に直面する。だがここで大切に描かれるのは、ひたすら慎ましい純愛の美しさである。この作品をファスビンダーのなかでもベストだと公言する映画作家にフィンランドのアキ・カウリスマキがおり、確かに日本でも好評を博した最新作『枯れ葉』(23)だけでも並々ならぬ影響の程が確認できるだろう。

本作は第27回カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞。ちなみにファスビンダー自身もエミの娘の夫役で出演。またアリ役のエル・ヘディ・ベン・サレムは当時のファスビンダーの愛人。彼らはパリのゲイサウナで出会ってから関係を深めたものの、サレムは本作の公開直前に暴力事件を起こして服役。やがて1977年、フランスのニームの刑務所で拘留中に自死。元愛人の死を自らが亡くなる直前に知ったファスビンダーは、最後の映画となった『ケレル』をサレムに捧げている。

■女性たちの愛憎関係を繊細に映しだす『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』

上記2作品に加え、あいにく現在「スターチャンネルEX」での見放題配信は終了してしまっているが、いま再評価のタイミングにふさわしいファスビンダー作品といえば、これを忘れてはいけない。1972年の『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』だ。ファッションデザイナーのペトラ・フォン・カント(マルギット・カルステンセン)と、彼女のもとに現れた美しいモデルのカーリン(ハンナ・シグラ)を巡って沈痛な愛憎のドラマが展開する。イングマール・ベルイマンなども引き合いにだされる重苦しい女性同士の闘争劇だが、これを男性同士のドラマに変換し(というより、実はファスビンダーと愛人の青年ギュンター・カウフマンの私生活を基にした内容なので、本来の形に戻したと言うのが正確かもしれない)、陽気なテンションでリメイクしたのがフランソワ・オゾン監督の『苦い涙』(22)である(ハンナ・シグラも出演)。オゾンはファスビンダー・フォロワーの筆頭格の1人で、キャリアの初期にはファスビンダーの未発表の戯曲を映画化した『焼け石に水』(00)を監督している。また『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』は、あのトッド・フィールド監督、ケイト・ブランシェット主演の『TAR/ター』(22)の参照作の一つではないかとの指摘もよく為された。ペトラとカーリン、そして助手のマレーネの人物相関と、ベルリンフィルの指揮者リディア・ターを巡る女性関係の構図に明瞭な類似が見られるのだ(ターの娘の名がペトラだったりもする)。少なくとも権力の問題、支配と搾取の構造を批評的に描いた『TAR/ター』が、この主題系のオリジンであるファスビンダーから大きく触発されていると見るのは至極妥当だろう。機会があればぜひ観るべき一作だ。

■ファスビンダーが盟友・ダニエル・シュミットとタッグを組む『天使の影』

さらにもう一本、ファスビンダーが原作・共同脚本・出演を務めた1976年の『天使の影』もある。これは長年繰り返し上演されているファスビンダーの戯曲の代表作「ゴミ、都市そして死」を、スイス出身のダニエル・シュミット監督が映画化したもの。街の片隅に立つ貧しい境遇から、ユダヤ人の不動産王に見初められていく娼婦リリーに扮するのは、一時期ファスビンダーと結婚していたイングリット・カーフェン。気怠い態度で強い香水を撒き散らすような退廃的名演を見せる。そして彼女にまとわりつくヒモ男のラウールをファスビンダー自身が演じている。原作の戯曲は当初、反ユダヤ的な内容との非難を批評家たちから浴びたが、むしろ戦後ドイツに漂う病理を丸ごと引き受け、この映画版では名手レナート・ベルタの撮影が荒廃した都市空間の中にロマネスクな幻想美を醸しだしていく。親友同士でもあるファスビンダーとシュミットの貴重なコラボレーションとしても興味深い。

以上、いずれも必見の4本だが、これもファスビンダーの全貌からすればほんの一部に過ぎない。しかも『不安は魂を食いつくす』と『天使の影』は「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー傑作選」で、『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』は「オゾンとファスビンダー」という特集上映企画で、ようやく2023年、日本では初めて正式に劇場公開されたのだ。いや、いまからでも遅くはない。この21世紀、血と汗と愛と涙に塗れた人間の裸形を改めて突きつけるように、ファスビンダーの新しい季節がこれからやってくるのかもしれない。

文/森直人