朝から晩までパチンコやパチスロを打ち、勝ち金で生活をするパチプロ。20代ならまだしも、30代、40代となるにつれ、世間の風当たりの強さに足を洗う者も多い。気ままな稼業の代名詞とも言われる彼らは、一体どんな人生を歩んでいるのだろうか。
◆高校中退してからパチプロになるまで

「パチスロで食っていたという意味なら“パチプロ”なんだろうけど、言ってみりゃやってたのは“サクラ”。今でいう打ち子。それもごく短期間だったからね……」

 苦笑いしながら話し始めたのは、村木隆弘さん(仮名・53歳)だ。村木さんの人生はまさに流転だ。九州地方の高校を中退してブラブラしていたところ、地元の兄貴分的な人物から誘われて始めた仕事は、日掛け金融の使いっぱしりだった。

 ちなみに日掛け金融とは、主に飲食店などの日銭商売の店主を相手にした日賦貸金業者のことで、主に九州地方では一時期隆盛を誇った貸金業者だ。日掛け金融の特徴は、返済は一日単位で精算。2000年までは特例で年利109%まで可能だったため、一部では「国が認めたヤミ金」とも呼ばれたこともある。だが、過酷な取り立てで自己破産する者が続出し社会問題。グレーゾーン金利の撤廃とともに特例も廃止され、姿を消した。

「日掛け金融で使いっぱしりやって、その後は福岡で自動車金融で使いっぱしりやって……って、まぁ、人に言えない商売ずっとやってたわな。で、まぁ、いろいろあって、ちょっと地元にいづらくなってきて、東京か大阪にでも行こうか……って思ってたときに、中学時代の同級生でまぁまぁ仲のよかったコが東京にいるって聞いて、転がり込んじゃったんだ(笑)」

 こうして2000年に村木さんは上京し、その後、転がり込んだ女性の紹介でバーテンダーとして働き始めたという。

◆常連客から“サクラ”の誘い

「吉祥寺のほうにあったフツーのバーでバーテンやってたんだけど、2年くらいしたらオーナーから『もう一軒出したいから、店長やってくんないか?』って。それでカウンターだけで8席くらいの小っちゃいバーで雇われ店長をし始めたんだ」

 ロン毛を後ろで縛り、どこか昔のキムタクを彷彿とさせる顔立ちの村木さん。そんな村木さんを慕って瞬く間に客は集まり、小さいながらも店は順調に繁盛した。そして、上京したときに転がり込んだ同級生の女性とも結婚。子供も生まれ、まさに順風満帆な時が訪れたのだが……。

「子供が生まれてカネも必要になってきて、店の売り上げに応じてインセンティブももらってたけど、それだけじゃちょっと不安で……。で、ある日、店でみんなでワイワイやってた時に『オレも人の親になっちゃったからさ、もっと稼がなきゃ』みたいな話になった。それで冗談で『昼間はパチスロで勝って、夜はバーテンとかやってたら、最高だよなぁ〜』みたいなことを言ったんだよね」

 この一言が村木さんの人生を大きく変えることになるとは、村木さんもこのときは知る由もなかった。

「常連のイトーちゃんってヤツがいて、そいつから電話掛かってきて『マスター、サクラやりませんか?』って。最初はハァ?ってなったけど、とにかく一度話しを聞いてほしいっていうから、その日の開店前にイトーちゃんが来たんだよ。

それで聞いたら、パチンコ屋の店長やってる人が高設定台を用意するからそれを打って、換金したカネを折半してほしいって言うんだ。要するに雇われ店長が小遣い稼ぎのために“抜き”をしたいって。『そんなん絶対怪しいよ』って言ったら、マスターもいろいろとカネ必要なんでしょって……」

◆店長と“サクラのルール”の話し合いへ

パチンコ 痛い所を突かれた村木さんは強く断ることもできず、数日後、イトーちゃんの紹介でホールの店長と会うこととなった。

「紹介してもらったのはイトーちゃんの先輩にあたる人で、都内の某チェーン系ホールの店長をしている人だった。『まぁ、私もいろいろと入り用でして、協力してもらえれば……』なんて感じで、その場で細かいルールを決めたんだ。差玉で3000枚以上は抜かない、終日打たない、投資金額抜いたカネで折半とか。投資が仮に1万円だとしたら、3000枚で6万円。日当2万5000円になるわけで、これを月に2〜3回お願いしたいっていうんで、オイシイよなって思った」

◆デビュー初日の日当は

 こうして2005年の春、村木さんはサクラとしてデビューを果たすこととなった。

「初めてサクラをやったのは、5号機の初代エヴァ。登場した当初は初の5号機ってことで話題になったけど、半年もしたら客付きは落ちて『やっぱり5号機は出ないよね』みたいに言われるようになってたんだ。当時はまだ4号機が主流で、出玉力で劣る5号機が受け入れられなかったのは、まぁ、仕方ないよねって。

サクラをやる前日の夜、イトーちゃんから台番号を教えてもらったの。『朝からエヴァを打つヤツなんかいないから、朝イチで来てピンポイントで打たれたら逆に怪しいから昼前くらいに来てくれ』って。でもさ、台取られてたらどうすんの?って聞いたら、『そうなったら諦めようって話が付いてる』って言ってた」

 いろいろと不安を抱えながら、村木さんは11時過ぎにホールへ。エヴァの島には誰もおらず、拍子抜けしたという。そして、言われたとおり、スロットのコーナーをフラフラと見回り、指定された台に座った。投資4,000円で食いつき、そのままダラダラと出続けて18時前にはカチ盛りのドル箱が2箱出来上がったため終了となった。出玉は3300枚ほど。換金6万6000円から投資の4000円を引いた6万2000円を折半し、3万1000円をイトーちゃんに渡してその日は終わった。

◆地元客に目をつけられることに

パチンコ それからは10日に一度ほどのペースで連絡があり、そのたびにエヴァを打ち、日当3万円ほどを手にしていた村木さんだったが、2か月ほどしたある日、思いもよらないことを耳にすることとなる。

「トイレでクソをしていたら、ドカドカ入ってきたヤツの声が聞こえてきたんだよ。『いっつもエヴァで出してるヤツいるよな、あれ、おかしくねぇ? 今日も出してるしさ〜』って。あのときは出かけたクソが戻るくらいビックリしたよ(笑)。場所柄、そのホールは地元の客が多くて、若いプータローなんて毎日来てるワケ。そんなところにたまに来て、ガラガラの島でタコ出ししてるヤツがいたら目立つんだよ」

 さすがにヤバいと思った村木さんは、急いで打つのをやめてイトーちゃんに連絡を取り、店長を交えて対策を練ることとなった。これが村木さん、破滅の序章となる。

◆“バレないための作戦”を決行

「仲間を増やして、ローテーションで打とうってなったんだよ。それで細かくルール決めたの。ヤメたら他のヤツと交代して一日打ち切ったり、夕方でヤメて放置したり、いろんなパターンを作った。誘ったのはバーの客で来てたA君、F君、H君の3人。

明日はA君が朝から打って2000枚出したらヤメ。H君はヤメるときにたまたま通りがかったフリして声掛けて譲ってもらって、そこからまた2000枚出るまで打って開放。明後日はF君が昼から打って終日打ち切る……とかね。それと店に行くときの服装も選ぶようにって店長から言われて、H君は本職が配管工だったから作業服着て、F君は元営業マンだったからスーツ着て行ってたね(笑)」

 村木さんもローテーションに入ってはいたのだが、顔バレもあるためできるだけ入らず、3人のメンバーをまとめる立場になった。

「オレはその都度、カネを回収してイトーちゃんに渡すっていう取りまとめ役になったんだけど、1回1万円をもらうことになったの。実入りは減ったけど、こんなんで毎回1万円ももらえるなんて、楽な仕事だよなぁって」

◆サクラのメンバーをスカウトした結果…

パチンコ そして5号機が増えるに従って店長はサクラの回数を増やしていった。村木さんはさらにメンバーをスカウト。メンバーが増えるに従って村木さんの取りまとめ料も増え、毎月20万円近くのカネが入るようになった。

「毎月20万、何にもしなくても入ってくるからウハウハで、そうなるといろいろやっちゃうワケ。最初は生活費の足しになればって始めたんだけど、所詮はあぶく銭だからボートとか競馬も派手にやったね。サクラやるメンバーにC子ちゃんてコがいたんだけど、家族がいるのにそのコともデキちゃってね……」

 では、肝心の本業であるバーの経営はどうだったんだろうか。

「飲みに来るのがほぼサクラのメンバーで、毎晩みんな飲むからバーはバーでむちゃくちゃ儲かったんだ。だから、この頃、すげぇカネがあった。女もいるし、カネもあるし、その代わり家庭は崩壊しちゃった(苦笑)。子供のために始めたのにね……」

 家庭は崩壊してしまったが、“楽しい日々”を過ごしていたと話す村木さん。しかし、そんな生活はもちろん長くは続かなかった。村木さんの人生は、ここからさらに大きく変わっていくことになる。

取材・文/谷本ススム



【谷本ススム】
グルメ、カルチャー、ギャンブルまで、面白いと思ったらとことん突っ走って取材するフットワークの軽さが売り。業界紙、週刊誌を経て、気がつけば今に至る40代ライター