2024年3月、ひとりの学生レスラーがリングを去った。名前は無村架純。慶應大学を飛び級で卒業し、現在は法科大学院で弁護士を志す彼女の“最後の試合”はどのような結末を迎えたのか? 学生プロレス界で異例の輝きを放った無村に、ロングインタビューで迫った。《NumberWeb特別引退ドキュメント第1回/後編に続く》

 学生プロレスとプロレスの最大の違い。

 それはリングネームに最低な下ネタを用いたものが多いこと、だけではない。

 だれもが4年生の最後には引退しなければならないこと。どんな選手であろうと、どれだけ駄々をこねようと、その鉄則からはだれも逃れられない。

 かかわりのない人たちには、体力も技術も未熟な大学生たちがプロレスの真似事をしているだけ、というふうに見えるかもしれない。けれども学生プロレスに熱中する当人や、全国でも一握りの学生プロレスファンにとっては、これほど魅力的なスポーツエンターテイメントはない。

 貧弱な新入生が、次第に引き締まった筋肉を備え、ときとしてプロにも劣らない根性とサービス精神で観客を魅了するようになる。そして心技体がもっとも充実したときに引退を迎える。

 それはあまりにも儚い。

 学生プロレスは高校野球に似ている。

 選手として活躍できる時間には限りがあり、だからこそひたむきに、我を忘れて競技に打ち込む。しかしその期間を過ぎれば、大半はそれまでとまったく無関係な道を歩んでいく。

 競技者や観客はそこになにを見ているのか。

 クサい言い方かもしれないが、それは青春だ。しかし濃度の高いばかばかしさが混じる分だけ、その青春はツンと青臭い。

異例の人気女子学生レスラー・無村架純引退の日

 2024年3月、慶應プロレス研究会(KWA)の4年生たちは引退の日を迎えた。

 それは近年、NumberWebや読売新聞、ABEMAといったメディアで取り上げられ、学生プロレスの枠を越えて活躍し、異例の人気と注目を集めた女子学生レスラー、無村架純が引退する日でもある。

 4年生たちの最後の試合を前に、KWA以外にも各地の学生プロレス団体から集った選手たちが、はじめにコミカルな闘いで場をあたためる。

「キエェーー!」

 実験用の白衣に身を包みながらも、実は文系学部に所属するマッドサイエンティスト・ミヨシが、モンゴリアンチョップで黒メイド姿のパイ・パン=ミッシェルを威嚇する。

 ミヨシのタッグパートナーを務める尿道 in 早漏王は、現地実況によればリングネームがバレるのを恐れ、まだ親に学生プロレスのことを言い出せていない。

 フィニッシュは三角フラスコに入った謎の赤い液体をミヨシが飲み……という流れのはずが、反対に対戦相手の田村女児(“女児”と書いて“ロリ”と読む)が飲み干し、限界突破の超覚醒。

「キエェーー!」

 田村が掟破りの逆モンゴリアンチョップからミヨシを押さえこみ、女子タッグが男子タッグに勝利を収めた。

 無村架純の引退試合は間もなくはじまる。

きっかけはテレビで観た“木村花の試合”

「自分に出せるものを、ちゃんと出して終わりたかったんです」

 無村架純は引退に向けて抱いていた思いをこう話す。

 高校時代に地下アイドル活動を行っていた彼女が、なんの縁もなかったプロレスに興味を持ったのは、テレビで観た木村花がきっかけだった。

 その華やかなビジュアルに魅了され、そこからスターダムをテレビ観戦するようになった彼女は、慶應義塾大学に進学すると、いくつかのサークル活動のなかからKWAを選ぶ。

「ちなみに最近は全女(全日本女子プロレス)やガイア(GAEA JAPAN)みたいな、けっこうバチバチしたプロレスが好きで、全日本プロレスの試合をよく観ます」

 KWAは創立から45年以上の歴史を誇る大学公認の学生プロレス団体だ。

 一時は選手数2名の低迷期を迎えたものの、なんとかしのぎきり、このころには10名を超えるところまで勢力を盛り返していた。

 そして彼女を含む同学年の新人が一挙に3人も入部した。

 無村架純のリングネームを名乗った彼女は、大学1年生の冬、先輩選手に付き添うディーバとして初めてリングに立ち、大学2年生だった2021年7月に試合デビュー。木村花やX Japanのhideらにインスパイアされたコスチュームをまとい、ひときわ人目を惹く彼女の存在は、男子選手中心の学生プロレス界ですぐさま話題を呼んだ。

 学生プロレスの晴れの舞台は学園祭だ。しかしそれがコロナ禍で中止になるなど、本来の活動の場が狭まったことで、むしろ自主興行の開催や団体間の交流は活発化した。

 KWAも同様で、それまで行わなかった団体交流が進み、選手たちは他団体が活動する地方でも試合をするようになった。

「有名になりたい気持ちはまったくなかったんです」

「無村さま〜♡」

 試合会場には、推しうちわを持つファンが集まり、奮闘する彼女に声援を送る。地方会場でも、彼女のサインやチェキを求めて、ファンが行列を作った。

 JUST TAP OUTや、水道橋のお好み焼き屋で開かれるおっこんdeプロレスでは、プロの選手と対戦した。慶應義塾大学の学園祭、三田祭ではスターダムとのコラボレーションも実現し、AZM、レディ・C、天咲光由の3選手から技を受けた。

 それらの活動にともない、メディアからの取材依頼は増え、自身もSNSで積極的に情報を発信していく。彼女の人気と知名度は、学生プロレス界ではかつてないほど上昇した。

「でも私自身は、有名になりたいとか、ちやほやされたいとか、そういう気持ちはまったくなかったんです」

 自分を見る世間の目が、自分の思いとは大きく異なることに、彼女は実は困惑していた。

高校時代の地下アイドル活動がベースに

 有名になることも、ちやほやされることも望んでいなかったし、積極的にメディアに露出する考えもなかった。

「ただ、依頼をいただいたら、それにはきちんと応えていこうと思って。だからいただいた依頼は、取材でもプロレスでもいっさい断らないようにしてきました。お仕事として全力でやろうと思っていたんです」

 その考え方の土台になっているのは、高校時代に行っていた地下アイドル活動だ。

 地元の東海地方で、16歳のときにはじめた地下アイドル活動は、彼女に人を沸かすことの楽しさを教えた。と同時に、活動を通してファンや仕事相手と接するさいの、マナーや礼儀も教えた。

「SNSをやるのもお仕事の一環だと思っていました。自撮りも、DM対応も、需要があるならサービスとして供給しないと、という意識があったんです。ファンや仕事相手の方たちがいるという状況は、地下アイドル時代とまったく変わりません。だから16歳のころからずっと同じことをやっている感覚なんです」

「ぶりっ子キャラだし、なにこの子はって(笑)」

 そのプロ意識の高さもあり、人気と知名度は跳ね上がったが、一方で彼女をねたむ心ない声も聞こえるようになった。

 “実力もないくせに、ちやほやされるなんて。”“学生プロレスの分際で仕事?”

  理不尽に感じることが多かった。

「有名になるってそういうことだと思うんですけど、だとしてもなぜそんなことを言われなきゃいけないんだろうって」

 そういった状況下にあっても、彼女がクレバーだったのは、自分自身をあくまでも“中の人”と位置づけていたところだ。

「私は中の人として、無村架純が理不尽な目に遭っているのを見ているようなイメージがありました。冷静に考えると、無村架純のSNSを見ていたら、たしかにそう感じると思うんです。無村はちょっとぶりっ子キャラだし、あんなに自撮りを投稿していて、なにこの子はって(笑)。でもそれはプロデュースが成功していた証なので。私自身はプロデューサー目線で考えているところが大きかったです」

史上初の“学生”アイドルレスラーとして

 無村架純は“彼女”のプロデュースワークによって作られた、史上初の学生アイドルレスラー――。

 いや、そう簡単には言いきれないところが、虚実皮膜のプロレスの世界だ。

 試合を行うためには、それだけの準備をしなければならない。筋トレも、受け身や技の練習も、中高6年間を美術部員として過ごした生粋の文系少女にとっては、生やさしいものではなかった。

 無村架純は、“彼女”自身が努力を重ねてきた、生身の結晶でもある。

 果たして、学生プロレスで行ってきたこれまでの試合を通じて、その成果を見せることはできたのか?

「自分に出せるものを、ちゃんと出して終わりたかったんです」

 本当の自分を見せる、唯一にして最後の機会。

 引退試合のゴングがついに鳴った。

《後編に続く》

(撮影=杉山拓也)

文=門間雄介

photograph by Takuya Sugiyama