2024年5月1日、F1レーサーのアイルトン・セナがレース中の事故により34歳でこの世を去ってから30年が経つ。没後20年の2014年に公開した特集「F1 セナから20年後の世界」のなかから、元F1ドライバーの中嶋悟氏のインタビューを再配信する。(初出:2014年5月1日/内容・肩書きなどは当時のまま)

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5月特集 F1 セナから20年後の世界
中嶋悟インタビュー 前編

 80年代から90年代、日本で隆盛を極めた驚異的なF1人気。それは、アイルトン・セナというひとりのドライバーの存在が大きな要因だったことは間違いない。あの頃、誰もがセナに注目し、熱狂していた。そして、そのスーパースターにアクシデントが起こった。

 1994年5月1日、F1サンマリノGP決勝レースが行なわれていたイタリア、イモラサーキットの事故で、セナはこの世を去った......。

 あれから20年――。F1というモータースポーツはどのように進化を遂げ、発展してきたのか。そして、あの頃から、何が変わって、何が変わらないままなのか。当時を知るドライバー、ジャーナリストらに、セナへの思い、F1への思いを語ってもらった。

 第1弾は日本人初のレギュラーF1ドライバー、中嶋悟氏。日本レース界で圧倒的な成績を残し、1987年、34歳でようやくF1参戦の道を切り拓いた中嶋氏が、ロータス・ホンダでチームメイトになったのが若き日のアイルトン・セナだった。

 当時27歳のセナは、すでにF1でのキャリアは3年を数えていた。タイトルこそ獲得していないが、4度の優勝を記録しており、未来の世界チャンピオンの有力候補として見られていた。

 F1の頂点を目指し、ギラギラしながら戦っていたセナの走りを、中嶋氏はチームメイトとしてどのように見て、感じていたのだろうか? 伝説の日本人ドライバーが、若き日のセナを語ってくれた。


1987年、セナと同じチームのロータスでF1デビューを飾った中嶋悟氏

 セナの何がすごいかっていうと、とにかく運転がうまいんです。ハンドルを切るのも、ブレーキを踏むのも、アクセルをコントロールするのも、全部がうまい。すべての操作を正確かつ短時間にこなすことができる。

 僕だって運転はうまいんですよ(笑)。だから日本では当時F1のひとつ下のカテゴリーだった全日本F2で、6年間(1981年〜1986年)で5回もチャンピオンになることができました。当時はクルマさえ壊れなければほぼ勝てるという自信もありましたし、日本で戦っているドライバーの中では一番うまいと自負していました。また、国内のF2を戦う上では十分な体力がありました。レースを走りきったあとも息は切れず、汗もかかずに優勝しちゃうという、それぐらい余裕がありました。

 だから、僕だって自信満々でF1のサーキットに行ったわけです。でも世界各国の選りすぐりのヤツらが集まってくるのがF1です。しかも、最初にチームメイトになったのがスーパーマンのセナだった。当時のセナは20代半ばで、「これからチャンピオンになるぞ!」と気力も体力も充実していました。


中嶋氏は、参戦初年度、セナからさまざまなアドバイスをもらったという photo by Grand Prix Photo/AFLO

 でも、僕がF1にデビューしたのは34歳です。日本で10年もF1ドライバーになるチャンスを模索し、ようやくその切符を手にしましたが、スポーツ選手としての肉体的なピークは過ぎていました。そんなふたりが出会い、チームメイトになったのです。

 デビューの年、僕は全16サーキットのうち10ぐらいは走ったことがなかったので、どうしてもコースを理解するのに時間がかかってしまいます。ところがセナは最初のセッションから、とんでもないスピードで走っていく。すごくショックでした。「エラいヤツとチームメイトになってしまった。とんでもないところに来てしまった」って。

 だからといって、ただ落ち込んでいたわけじゃないですよ。「やっと夢のF1まで来たのだから、自分の持っているすべての力を出してやる!」と思いながら戦っていました。そういう気持ちを持っていないと、やっていられない世界ですから。

 チームメイトだった時のセナは、F1参戦1年目の僕によくアドバイスをくれました。例えば、「あのコーナーのバンプは危ないので避けたほうがいい」とか、自分の経験をもとにコースの危険なところを指摘してくれました。また当時のF1はオートマチックじゃないので、シフトチェンジの多いモナコでは、手のひらの皮がむけてしまう。だから手が痛くならないように、テーピングの仕方を教えてくれたりもしました。「これやったら絶対にいいよ!」と、僕の手に薬をぬって、テープを巻いてくれましたよ。

 でも、そういうことをしてくれるのは僕が敵じゃないからです。宿敵だったアラン・プロストにはそういうことは絶対にしませんよね。だからマクラーレン時代にプロストとチャンピオンを争っていた時のような、切羽詰まったセナの姿は見たことがありません。


モナコで勝利したときのセナ。左手には中嶋氏にも伝授したというテーピング photo by AFLO

 よくセナの勝利にかける執念が並み外れて強いと言う人がいますが、じゃあプロストはどうなのか? 89年と90年の日本GPでふたりは接触する形でタイトルが決まっていますが、プロストだって勝利にかける思いは同じだったと思います。レベルが違うと言われればそれまでですが、僕だって勝ちたいと思って戦っていました。

 結局、F1ドライバーというのはみんな下のカテゴリーでチャンピオンになり、勝ちあがってきた者ばかりです。みんなが「俺が一番だ、俺が世界一だ」と思っています。そういう世界なんです。でも1位はひとつしかないのですから、そこに実力が拮抗したふたりがいたら、セナとプロストのような接触という結末になっても不思議じゃない。目指すところが一緒で、本当に同じレベルにいる者同士が戦っている中では、ああいう接触事故はあり得ることです。

 お互いに「俺が先だ! 俺が先だ!」と意地の張り合いになって、結果的に重なり合うようにぶつかってしまった。周囲の人たちが故意だとか故意じゃないとか、いろんな意見を述べていますが、同じフィールドで戦ったドライバーとして言わせてもらえば、セナとプロストのアクシデントの真実はそういうことだと思います。

 当時のドライバーたちは、レース中に接触することも厭(いと)わない、命がけで走っていたなんて、そんなバカなことはあり得ません。そんなことは冗談でも言えないですよ。もちろんF1は身体をはって限界に挑むスポーツだと身を持ってわかっていますし、時には相手のことを「この野郎!」と思いながら走ることもあります。だからといって捨て身になって、命をかけてやるものではない。命をかけないように、自分の技と経験を駆使して戦うんです。

 それがレースです。アイツは臆病者だと言われてもいいですが、僕はそう信じています。

 いまは国内のトップカテゴリーで自分のチームを持って監督をしていますが、セナのようなドライバーがいたらうれしいですよ。どんどん勝ってくれるしね(笑)。でもF1ドライバーとして、いきなりセナと組むというのはキツかった。周りからは「なんでセナよりも遅いんだ」と何度も言われましたから。とはいえ、彼が並みのドライバーだったら僕はもっとツラい思いをしたはずです。


セナとの思い出を、ときおり笑顔を見せて語ってくれた中嶋氏

 セナは僕と組んだ翌年(88年)、マクラーレン・ホンダに移籍して、当時最高のドライバーと言われていたプロストのチームメイトになりました。もしプロストが何度も優勝しているのに、セナはいつも5位とか6位を走っているという状況だったらショックですよね。そのセナよりも遅かった僕は・・・・・・ということですから。すぐにでもF1ドライバーをやめないといけなかったですよね(笑)。

 でもセナはプロストを打ち破って、自身初のチャンピオンに輝きました。この時、セナは喜んでいましたが、僕だって心から喜びました。僕がデビューシーズンにともに戦い、一度も勝てなかった男は、やっぱり特別な存在だったと証明されたのですから。

(後編に続く)

プロフィール
中嶋悟(なかじま・さとる)
1953年2月23日愛知県生まれ。
国内ではトップカテゴリーF2シリーズで5回のチャンピオンを獲得。ホンダエンジンの開発にも参加し、F1テストドライバーも務めた。34歳で念願のF1フル参戦ドライバーとして、名門ロータスよりデビュー。('87-'89 ロータス、'90-'91 ティレル)この年から鈴鹿で日本GPが開催され、日本でのF1人気が一気に高まった。91年にドライバーを引退。ナカジマレーシングの総監督として、活動を開始。国内のトップフォーミュラー、耐久レースなどに参戦するとともに、国内外の若手ドライバーにチャンスを与え、ドライバー育成にも力を注ぐ。現在、日本レースプロモーション会長、鈴鹿サーキットレーシングスクール校長も務める。

著者:川原田剛●取材・文 text by Kawarada Tsuyoshi