【桟原将司 ハナの剛腕道中(5)】中学時代は大阪の大正ボーイズでプレーして、恩師からの勧めもあり僕は野球の名門・大阪桐蔭高に進学することになりました。自分では測ったことがないので定かではないですが、中学時代で直球の最速は135キロほど出ていたそうです。とはいえ、僕は中学時代は無名の投手です。いろいろな名門のボーイズやシニアリーグなどから、有力な中学生が集結してきているわけで、いきなり主力で投げるなんて無理という状況でした。

 僕が入学した頃、3年生には後にプロになる水田圭介さんがいました。当時、高校通算55本塁打を打っていて、高校野球雑誌では超有名人です。大阪桐蔭からプリンスホテル野球部に入部。高校から社会人に進んだ選手は3年後にドラフト可能ですが、プリンスホテル野球部の廃部に伴い特例で1年早い2000年に20歳で西武に入団した内野手です。09年途中に藤田太陽とのトレードで阪神でもプレーされ、プロでチームメートにもなりました。

 そんな中、僕は高校1年時に直球の最速が140キロ手前までに到達。ただ、名門校のカベで1年から試合で投げさせてもらうということはさすがにありませんでした。6月に日帰りの広島遠征があったのですが、帯同した1年生投手2人の中には選んでもらえました。夏の大会の登録メンバーに選ばれることはありませんでしたが、少しずつチーム内での立ち位置が良くなっているなとは感じていました。

 水田さんが3年生だった1998年夏の大阪府予選は80回記念大会だったため、北大阪と南大阪に分かれて行われました。北大阪から甲子園を狙った大阪桐蔭は3回戦で金光第一に負けてしまうんです。まさかでした。その試合に勝っていれば次戦は阪神OBでもある久保康友さん率いる関大一高との対戦でしたが…。

 母校が甲子園に出場してアルプススタンドで応援。そんな想像をしていましたが…。先輩たちが早く敗戦するということは新チームが早く始まるということです。つまり地獄の夏の練習が早くスタートしてしまうわけです。

 そんな中、8月の終わりぐらいに僕の右肩が突然、上がらなくなってしまうという事件が発生しました。それでも無理して投げていたら、投げているうちにまひして投げられているみたいな時期が続きました。

 そうした状態にもかかわらず新チームの秋の大会のメンバーに僕は選ばれてしまい背番号「10」を頂くことになってしまいました。2番手投手の位置付けですが、ベンチで何もせず応援しているだけです。野球部のかかりつけの接骨院で肩の固定から始まり治療を続けました。

 原因は不明なのですがどこかが炎症を起こしていたのでしょう。若いってすごいですよね。休ませて治療していつの間にか投げられるようになる。その後も肘を痛めたりなど順風満帆とはいかなかったのですが「けがの功名」ではないですが、僕は投げられない期間に謎の成長を遂げることになるんです。