では、どうしてそのような意識を私たちは持つようになってしまったのだろうか。

この問いを考えるために、少しだけ渋谷の歴史を見ていきたい(以下、記述は、吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』、北田暁大『広告都市・東京』、宮沢章夫『80年代サブカルチャー論講義』を参照)。

実は、渋谷の歴史の始まりは、「ぶらぶら歩ける街」として形作られてきた経緯がある。

渋谷が、現在のように活気のある街になったのは、1970年代あたりからのことだ。西武パルコグループが渋谷を一面的に開発したことから、その繁華街としての歴史が始まる。パルコに向かう坂には「スペイン坂」、他の坂にも「オルガン坂」などの外国風の名前を付け、通りには南欧風の電話ボックスを置いたりもした。いわば、街を「演出」したのだ。

パルコが行ったのは、「点」としての商業施設を作るだけでなく、それらをつなぐ「線」、そしてそのすべてを含む「面」を一帯的な開発・演出だ。これによって、歩くことが楽しい街が形作られていったわけである。こうした「街の演出」を端的に表すのが、西武パルコが掲げたキャッチコピーだ。

「すれちがう人が美しい〜渋谷公園通り〜」。

これだけで、ちょっと街を歩きたくなる。渋谷に行けば、店に入らなくても、何か楽しいことがあるかな、と思わせる魅力があったのだろう。社会学者の北田暁大は、こうした70〜80年代渋谷の開発を、「ディズニーランド」に例えているが、ディズニーランド内は歩いているだけで楽しいように、渋谷もそんな街として存在していたわけだ。

チーマー、ジベタリアン、90年代渋谷の使われ方

このようにして、渋谷は歩いていて楽しい街として開発されたのだが、これが1990年代以降は異なる様相を見せるようになる。センター街(現・バスケットボールストリート)を中心に、いわゆる「援交少女」たちやチーマーなどがたむろするようになったのだ。

こうした人々は、例えば、1990年代後半から2000年代前半にかけて、社会問題にもなった「ジベタリアン」として、渋谷の路上にたむろしたりしていた。西武パルコのシンクタンクが運営するメディア「ACROSS」が2000年に渋谷の大規模な路上調査を行っているが、そこでは、路上にたむろする人々が多くいる様子が書かれている(奇しくも、そこでは「路上カフェ」としてジベタリアンたちが紹介されている)。