政治は反応せざるをえない。1955年2月の衆議院選挙で各政党は、農漁民ら自営業者も加入できる年金制度の創設を掲げた。同年10月、左右に分裂していた社会党が統一して日本社会党が、11月には民主党と自由党が合流して自由民主党が誕生した。自民党が与党、社会党が野党であり続ける「55年体制」である。

「国民皆年金制度」が既定路線となる中、1957年2月、総理の座についたのが、岸信介――安倍晋三の祖父であった。

病を抱えた秀才官僚

1958年4月1日、厚生省に「国民年金準備委員会事務局」が設置された。厚相・堀木鎌三が、病に臥せりながらも、省内各局から優秀な人物を集めよとしつこく指示を出したためだ。そこで事務局トップに抜擢されたのが、42歳の保険局次長・小山進次郎であった。

小山は東京帝国大学法学部を1938年に卒業後、設置されたばかりの厚生省に入省。翌年、山口県庁に出向し、県庁そばの書店で最も本を買う客だったという逸話が残る。1942年には、猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』で題材にされた若手エリート集団「総力戦研究所」の研究生となった。終戦後、引揚援護院援護局業務課長、社会局保護課長といった弱者救済に携わり、1951年に省中枢の大臣官房総務課長に。1956年、保険局次長となった。

眼鏡をかけた痩身の神経質そうな外見である。実は、30代で心臓病を発症し、聖路加国際病院の日野原重明(後に名誉院長)を主治医として病と闘っていた。小山が急に姿を消せば、トイレで薬を飲んでいると、後輩たちは理解した。

大臣肝いりの組織とあって、各局は有望株を速やかに推薦してきた。

事務局は正式なポストでなく、小山は、医療機関の診療報酬が全国一律となったことによる処理で、保健局次長を兼務した。当面は、尾崎重毅事務局次長(厚生年金保険課長兼務)が舵取りを担った。尾崎は後に人事課長となり、古川貞二郎の直談判を受ける。

事務局は部屋や備品の手配から始めなければならなかった。

こうして入居したのが、あのオンボロ庁舎2階だった。

(第2回につづく)

著者:和田 泰明