プロレス入りの話は1998年頃から

 第64代横綱、曙の訃報が入った。2003年に角界を退き、同年大晦日にK-1ファイターとしてデビューした曙は、2005年以降、活躍の場をプロレスに移し、レスラーとして活躍していた。取材記者として間近で観た“プロレスラー・曙”の魅力を語りたい。

 もう時効なので明かすが、そもそも、プロレス入りの話は1998年頃からあった。6代・高砂親方(元小結・富士錦)を父に持つプロレスラー・一宮章一が仲介役となり、天龍源一郎率いるWARでデビューし、ゆくゆくは新日本プロレスに上がるという算段だった(同団体フロント・永島勝司氏談)。だが、この時はそもそも曙が現役力士だったため、何回か交渉したものの、話は立ち消えになった。しかし、この時、プロレス入りには前向きな気持ちも見せていたという。

 結局、WWEからオファーが届くと、2005年3月、ヒューストンでプロレス・デビュー。この際、当時、曙の主戦場だったK-1プロデューサー(当時)の谷川貞治は、本人から、こう言われている。

「“ぜひ、やらせて下さい。お願いします”と。心底、プロレスをやりたそうでしたね」(谷川)

「子どもの頃から、大のプロレス好きだった」とも語っていたという。

 そんな曙の人柄に触れたのは、彼が全日本プロレスを主戦場にしていた時だった。

 2011年5月、全日本プロレスでは大事件が勃発していた。神戸大会の試合前、もめ事でTARU選手から殴打されたヘイト選手が、意識不明の重体に。翌月の後楽園ホール大会では、開場前、全日本プロレス側からの事情説明が行われることになっていた。昼の興行であり、朝の11時に4階西側のコメントスペースに集められた報道陣は、皆、物憂げな表情だった。話題が話題だけに、談笑も出来ない。普段は来ない一般誌・紙などのマスコミも取材に来ていたことで、緊張の糸も張り巡らされて いた。すると、そこに巨漢の曙選手が現れた。

「いやあ、皆さん! 今日は僕のために、こんなに集まって頂き、ありがとうございます! 今日で引退します!(笑)」

 笑いが起きると共に、明るい空気になった。後から、この会見を、曙が誰よりも気にしていたと聞いた。

 話し好きの明るい性格ゆえ、試合前、曙にかねて気になっていた質問をしたことがあった。

「曙さん、子供の頃から、プロレスがお好きだったとか?」

「うん。(故郷のハワイでは)毎週日曜5時から放送でね。ミッシング・リンクとかドン・ムラコとか……知ってる? ブロディやホーガンも好きだったけど、同じハワイアンのジミー・スヌーカをどうしても応援してたよね」

 次々に出て来るレジェンド・レスラーの名前よりも、最初にテレビの放映時間から入ったことが嬉しかった。毎週、放送を心待ちにしていた少年時代がうかがわれた。

 そんな曙が見せるプロレスの試合は、まさにファンのハートをくすぐった。

「試合中は度を過ぎないで」

 曙のファイトスタイルは、デビューとなる、グレート・ムタ戦(2005年8月4日。主宰は「WRESTLE-1 GRAND PRIX 2005」)から、刮目すべきものがあった。場外に飛ぶと見せかけてのスライディング・キック、巨体を小回りさせてのスクール・ボーイetc。同年8月21日、全日本プロレスでの初戦を迎えると、TAJIRIの放つ毒霧を、水中ゴーグルで受け止めるトンチも披露した。翌2006年1月からは新日本プロレスのリングにも上がり、3月にはIWGPヘビー級王座にも挑戦。同年7月の同王座決定トーナメントにもエントリーし、8月には「G1 CLIMAX」にも特別参戦した。

「G1」では4代目タイガーマスクとのタッグで、覆面姿の「ボノ・タイガー」に変身していた。翌年は『G1 CLIMAX』の本戦にも出場。開幕の永田裕志戦では、倒れた永田を踏みつけ、土俵入りのポーズを披露したかと思えば、永田選手のパフォーマンスである敬礼まで先取りして見せてていた。

 個人的に印象に残っているのは全日本プロレスのマットだ。ロープを掴みながら、倒れた選手を両足で踏みつける。(ロープを掴みながらの行為は反則になるため)レフェリーがカウントを取ると、両手をパッとロープから放してしまった。瞬間、場内はドッとウケた。何の支えもなく曙が選手の腹に直立する形となり、全体重がかかることになったためである。ファンを楽しませるツボを知っている、頭の良さがあった。

 試合後、タッグパートナーに釘を刺したことがあった。コスプレ戦士、長島☆自演乙☆雄一郎とタッグを組んだ時だった(2011年6月14日。vs大谷晋二郎、橋本大地。主宰はZERO1)。この日、2人は人気漫画「ワンピース」のコスプレで入場。曙は主人公ルフィに、プロレスの試合が2戦目の自演乙はオカマ戦士、ボン・クレーに仮装した。嬉々として大谷の得意技の顔面ウォッシュや、武藤のシャイニング・ウィザードを真似る乙に、試合後、曙はやんわりと言った。

「楽しいのも良いけど、余り試合中は度を過ぎないで。プロレスは闘いなんだから……」

「プロレスは自分が選んだ道」

 プロレス・デビューして7カ月後の2005年10月、NOAHの三沢光晴とタッグ対決し、「プロレス界の横綱に触れました」と喜んでいた曙が、本当にプロレスの凄さを知ったのは翌年1月、NOAHで力皇猛と組み、小橋建太、泉田純至と戦った時だったという。同じコーナーの、サードロープに曙が、セカンドロープに力皇が立ち、重なる形でダイビング・ボディプレスを泉田に炸裂させ、フォール勝ちした。瞬間、曙は目を疑ったという。

「泉田選手が、自分の足で立ち上がって、帰って行った。僕と力皇選手で、合わせて350kg以上ですよ。力士なら絶対に怪我をしている。試合前、『失神まではしょうがないけど、死ななきゃいいな』と心配していたくらいなんです。その時、『大変な世界に来てしまったんだな』と思ったんですね」

「G1 CLIMAX」参戦中、リングで練習していると、スキンヘッドの人物が近づいて来て、言われた。「ずっと観てたけど、あなた、本当によく練習するね。あなたならウチの道場、いつ使ってくれてもいいよ。私からも言っておくから」。“鬼軍曹”として知られた、山本小鉄だった。

 練習はもちろん、攻めも受けも全力投球だった。諏訪魔にフロント・スープレックスで投げられ、関本大介にジャーマン・スープレックスで固められた。トップコーナーからダイビング・ボディプレスを見舞い、何度かわされても封印はしなかった。白眉は、2012年より始まる、大仁田厚との電流爆破マッチでの抗争だろう。何度も正面から被爆する姿は、今回の訃報にあたり大仁田も絶賛していた。これが2013年8月31日に一旦終了すると、翌月は、全日本プロレスの「王道トーナメント」を勝ち抜き、優勝する。試合後、コメントルームでワンショルダータイツの上半身を開けると、報道陣は声を失った。腹に穴が何か所も空いたような傷があったのだ。電流爆破の火傷の痕だった。

「(プロレスは)自分が選んだ道ですから。負けた時の言い訳もしたくなかったから」と、火傷を隠し通していたのだった。

 2000年代の初頭、新興のスポーツ雑誌で、こちらも元横綱でプロレスラーにもなった輪島大士さんの取材に立ち会ったことがある。プロレスと相撲の共通点を、「どちらも、自分の型を持ってる人は強いね」という輪島さんは、プロレスラー時代の思い残しとして 、「1度はベルトを巻いてみたかったね」と語っていた。

 対して、相撲とプロレスの違いについて、曙は次のように答えている。

〈ない! どっちも同じ。変わらない。僕らが相撲で最初に教わったのは『お客さんが明日も見たいと思う相撲を取れ』ということ。勝ち負けより、もっと大きいものがあると、その頃から教えられていました。(中略)お客さんが喜ぶような相撲をとって、勝って、初めて人気が出る。プロレスも、いかにお客さんを満足させるかの勝負〉(「実話ナックルズ」2015年4月号)

 王道トーナメント優勝の翌月、曙は全日本プロレスの至宝、三冠統一ヘビー級王座を初奪取。それは、東富士、輪島、北尾らが果たせなかった、横綱出身レスラーとして、初のシングル王座獲得だった。試合後、曙は語った。

「横綱の時も、どういう横綱になればいいか悩んでたけど、よく見たら、横綱が他に近くにいるわけじゃない、自分の持ってるものが良かったから横綱になれたのかなって。だから、(三冠王者になれたのも)、自分にも良い部分があったのかも知れません。それをこれからも磨いていきたい」

 いつしか、全日本プロレスの巡業バスでは、亡くなったジャイアント馬場さんが座っていた大型の席に、曙が座るのが許されるようになっていた。2015年には馬場さんの妻、元子さんの肝煎りにより、新団体「王道」を立ち上げていた。2017年以降は急性心不全や右足蜂窩炎をはじめとする感染症などで長期欠場となったが、リングでの激闘の記憶は決して消えない。

 曙さん、あなたは本当に素晴らしいプロレスラーでした。胸躍る数々の思い出をありがとう。合掌。

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。シナリオライターとして、故・田村孟氏に師事。フジテレビ「カルトQ〜プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。近著に『アントニオ猪木』(新潮新書)、『プロレスラー夜明け前』(スタンダーズ)など。BSフジ放送「反骨のプロレス魂」シリーズの監修も務めている。

デイリー新潮編集部