「皇族詐欺」という犯罪のジャンルがある。皇室の出自であると偽って詐欺をはたらくことで、昭和天皇のご落胤(らくいん、身分の高い男性が正妻以外との間にもうけた子ども)や「有栖川識仁殿下」など、国内外に現れた“偽皇族”は数多い。その中でも元祖と見られていたのは、終戦直後から元皇族・北白川宮(きたしらかわのみや)のご落胤、および久邇宮朝融(くにのみや・あさあきら)王の愛人などを自称した「増田きぬ」である。

 昭和53年には元皇族・東久邇稔彦(ひがしくに・なるひこ)氏の“戸籍妻”として注目され、その後も数々の訴訟や詐欺スレスレの行為が報じられた。それから数十年が過ぎた2005年、ノンフィクションライターの上條昌史氏が米寿目前の増田きぬに 追った。

(前後編記事の前編・「新潮45」2005年8月号特集「昭和史七大『猛女怪女』列伝 元祖偽皇族『東久邇きぬ』という謎」をもとに再構成しました。文中の年齢、肩書、年代表記等は執筆当時のものです)

 ***

はたして“椿姫”は健在なのか

 箱根登山鉄道ケーブルカーを中強羅駅で降り、旅館や保養所が並ぶ道を歩いていくと、小高い丘の上の木立の中に、突如“金閣寺”が現れる。三層になった屋根に朱色の手摺、屋根の上には鳳凰。石段の下には「真言宗東麗寺」という立て札が建っている。

 近隣に住む人々は、その“金閣寺”の住人を「お姫様」「椿姫」と呼んでいる。現在88歳になる老女の本当の名は「公照院紫香」、3年前に改名する前の本名は「増田きぬ」という。

 終戦直後に、元皇族の北白川宮の“ご落胤”にして、久邇宮朝融王の愛人と自称して有名になり、昭和53年に、元皇族で戦後初の総理大臣を務めた東久邇稔彦氏の“戸籍妻”として話題になった女性である。一昨年「有栖川宮」を名乗った披露宴詐欺事件があったが、この“椿姫”こそ、いわば皇族詐称の元祖、と見る向きもある。

 石段を登ると、中庭に小さな社と石碑が建っている。社は龍神王を祭ったもの、そして石碑には「李方子(り・まさこ)王妃碑」という文字が刻まれている。戦前、朝鮮李王朝の皇太子へ嫁いだ皇族、梨本宮方子妃を偲んだ顕彰碑らしい。

“金閣寺”の正面玄関はひっそりとしていた。呼び鈴を押すが応答はない。濡れた傘が玄関脇に置かれて雫が垂れている。よく見ると、朱色の手摺は錆びで覆われ、ところどころ朽ちかけている。はたして“椿姫”は健在なのだろうか。野良猫が木立の間を走り抜ける。

波乱万丈な「椿姫物語」

“椿姫”こと、増田きぬが世に出たのは、昭和25年。9月4日付の新聞紙上に、「椿姫楽壇に咲く」という華々しいタイトルで登場した。

 記事の内容は、北白川宮成久(なるひ)王の“ご落胤”として出生し、久邇宮朝融王の愛人として社交界に話題をまき、その数奇な人生を題材に「椿姫物語」という映画まで企画された美貌の女性が、今秋“椿智香子”の芸名で華々しくデビューする――、というもの。

 記事中には、パリに外遊中、交通事故死した成久王に仕えた女官が自分の母であること、他の姉妹たちから離されて特別に養育されたこと、いつからか椿の花に対する不思議な愛情があり、庭も着物も居間の飾りもすべて椿の花で整えるようになったこと、それでもわが身を思うと、絶えず孤独の念に襲われてきたこと、などが記されている。そして最後に、「事実無根のことで、まったく迷惑している」と語る北白川家の否定談話。

 この談話を裏付けるように、彼女の出生は後日、あっさりと暴露されてしまった。戸籍によると、本籍は群馬県邑楽(おうら)郡で、父親は農業を営む増田吉松、母親はくま。彼女は彼らの四女として大正6年1月26日に出生した。だが彼女自身は、「増田の戸籍に入っているのは、養女としてもらわれたから」と主張している。

「椿御殿」で家事免除の特別扱い

 ご落胤説の真偽はどうであれ、その後の彼女の半生は、自身の“物語”によれば、確かに波乱に富んでいた。

 父親が死んだ後、母親は娘たちを連れて上京、当初は品川に住み、昭和13年に目黒区鷹番町に家を買った。この家は、通称“椿御殿”と呼ばれ、姉妹の中で、なぜかきぬだけが家事を免除され、特別扱いを受けていた。毎月相当な額の金が椿御殿に届き、一説には「満州で軍関係の仕事をしているある人物が、生活費を出してくれていた」という。

 17歳のときに、ある映画に出演することになったのがきっかけで、皇族の久邇朝融に出会い激しい恋に落ちる。しかし朝融は皇族のため離婚できず、それを苦に彼女は一時自殺を図ったこともある。

 箱根の強羅に約4000坪の別荘を購入したのは昭和15年頃で、終戦後、この別荘は「クラブ椿山荘」に変わり、米軍の将校と性的サービスに従事する女性が出入りする宿の様相を呈する。彼女はそこの経営者として敏腕をふるう一方、赤坂の一角にモダンなパーと料理店をオープンし、話題を集めた。

 その後、アメリカに渡り、ロサンゼルスで事業を起こすが失敗、しかしその地でも北白川のご落胤、久邇朝融の愛人で通したため、皇室に弱い日系人の間で有名になる。昭和45年には、ケンイチ・カタヤマ氏と結婚してハワイに住むが、昭和52年に離婚。再び強羅に戻ってきて、「椿山荘」の経営に携わることになった。

 まさに波乱万丈の人生だが、いずれいせよ、ここまでは戦後よくあった皇族関係のご落胤話、といえなくもなかった。だがそれから、彼女は再び世に登場し、本格的な“皇族デビュー”を果たすことになる。

稔彦氏は冗談のつもりだった?

 彼女が、再び世間を騒がせたのは、昭和53年。“被害”にあったのは、戦後初の総理大臣を務めた元皇族の東久邇稔彦氏だった。増田きぬは、彼の知らない間に婚姻届を出して入籍し、東久邇夫人におさまってしまったのだ。

 当時、稔彦氏は91歳。妻である聡子(としこ)夫人(明治天皇の第9皇女)を病気で失って、わずか半年後の出来事だった。

 当然のことながら、稔彦氏側は、「結婚を約束した覚えはない」と、婚姻無効の訴訟を起こす。しかし増田きぬは、「2人の合意でしたこと」と主張。東京地裁の第一審では、「すぐに離婚すること」という条件付きながら、「婚姻は有効」との裁定が下ってしまった。

 当時の事情をよく知る人物は、コトの次第をこう説明する。

「増田きぬと、東久邇稔彦氏との付き合いは、昭和32、3年頃から始まったと聞いています。一説には、稔彦氏が久邇朝融氏から、きぬを譲り渡されたという話もあります。きぬは、都内目黒区にある稔彦氏の青葉台のお屋敷に自由に出入りするようになっていて、いろいろ土産物を持っていくものだから、屋敷の老女たちとも仲が良くなっていた。そして聡子夫人が亡くなった後、稔彦氏の方から『どうだ、一緒にならないか』という話があった。

 きぬも最初は冗談かと思っていたらしいのですが、会うたびに言われるものだから、気が変わらないうちにと、屋敷にあった稔彦氏の印鑑をこっそり持ち出して、勝手に婚姻届を出してしまった。稔彦氏は、口の軽い方だったから、冗談のつもりで言ったと思うのですが、脇が甘かったために、結果的に彼女に“籍ジャック”されてしまったのです」

きぬの目的は「東久邇」の名字

“被害者”である東久邇稔彦氏は、もともと歴代皇族のなかでも、“やんちゃ皇族”と呼ばれ、奔放な人生を送ってきた人物である。大正9年に単身フランスに留学。画家のモネや政治家クレマンソーと親交を深め、「資本論」の研究もしたという異色の人で、終戦直後には、昭和天皇に請われて首相に就任し、宮様内閣として敗戦処理に奔走した。

 その後は皇籍を離脱し、平民として生きるべく、新宿の闇市で乾物商や古美術商、さらには“ポンせんべい機”販売などを営んだが、いずれも失敗。昭和25年には、新興宗教「ひがしくに教」の開祖になったが、公職追放中の身にふさわしくないというGHQの意向を受け挫折。戦前に所有していた東京・高輪の約4万平方メートルの「御用地」も国有地となり、増田きぬと出会った当時は、財産も少なくなっていた。

 したがって、増田きぬとすれば、入籍の目的は財産ではなく、あくまでも「東久邇」という元皇族の名字、肩書きだったに違いない。事実、戸籍上東久邇夫人となった彼女は、以降、やりたい放題の行状を繰り広げていくのである。

さまざまなトラブル

 すでに聡子夫人が存命中から、東久邇夫人然として、稔彦氏の誕生パーティーなどでは並んで席についていたという増田きぬだが、「戸籍夫人」となってからは、すっかり元皇族・東久邇夫人になりきって活動するようになった。

 たとえば、稔彦氏を会長に据えた「スリランカ孤児身障児援助の会」を作り、自身は「東久邇晶子」と皇族ふうに名を変え、理事長として、スリランカ・チャリティー宝石旅行などを企画する。デバートやホテル、宝飾店などに「東久邇ですが」と電話をして、品物を取り寄せたり、部屋を予約したりするようになる。

 しかし週刊誌などで、裁判中の「戸籍夫人」と騒がれ、東久邇の神通力に影がさすと、次第にトラブルが表面に現れ始めた。

 まず、スリランカ・チャリティー宝石旅行の時、250万円のダイヤを寸借したのがもとで、宝石屋と絶縁状態に。さらに、元皇族だからと相手を信用させて、他人の絵を売ろうとしたり、宝石を持ち歩いて金を借りようとするという行為をあちこちではたらき、昭和58年には、ある会社の社長に借りた1000万円を返済せず、民事訴訟を起 こされた。

 この社長、菊の御紋章が入った東久邇の名刺を渡され、紫の帽子を被った女官風の女性(のちに増田きぬの実妹と判明)が付き添っていたため、すっかり騙されてしまったという。

最高裁で「婚姻無効」が確定しても…

 昭和61年には、箱根強羅の自宅の隣に、「竜宮殿金閣社殿」(冒頭の“金閣寺”のこと)を建立、同時に「椿山荘」の改修工事を行った。“金閣寺”は京都にある宗教法人「平安教団」の分院という触れ込みで、送り盆の行事には、元皇族をはじめ、大物政治家たちの秘書らも顔を出したというが、翌年「椿山荘」の改修工事を請負った建築会社から、工事代金5400万円のうち、未払いの3400万円の支払いを求める訴訟を起 こされてしまう。

 そもそも、改修した「椿山荘」は、「金閣社殿」を建てたとき、集まってくる信者のための旅館、あるいは会員制のクラブとして使用し、収益を上げる予定だったという。しかしその後、信者が訪れる様子もなく、「椿山荘」は開店休業状態。改修工事代金を、払おうにも払えなくなってしまったのである。

 結局、「婚姻無効」の裁判の方も、昭和62年3月、東京高裁で一審判決が覆されて「婚姻無効」の判決が出され、同年6月26日、最高裁で最終的な「婚姻無効」が確定した。

 東久邇稔彦氏は、この判決を受けた3年後に、102歳という高齢で亡くなった。一方、増田きぬは、裁判に負け、除籍され、借りた金を返さずに次々と訴えられ、窮地に陥っていたはずだが、そうした事態になっても、生き方は変わらなかった。判決後も懲りた様子がなく、「東久邇紫香」と名を変え、“元皇族”としての活動を続けていたのである。

 ***

 後編では、増田きぬと古くからの知り合いである皇室ジャーナリストがその素顔を、近隣住民が目撃談を証言。筆者が成功した増田きぬ本人の電話取材についても、その内容を詳細にお届けする。

 後編【「舌を抜かれて地獄に落ちますからね」…終戦直後から平成まで“偽皇族”を貫いた「増田きぬ」が、米寿目前で語っていた過去と残りの人生】につづく

上條昌史(かみじょうまさし)
ノンフィクション・ライター。1961年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部中退。編集プロダクションを経てフリーに。事件、政治、ビジネスなど幅広い分野で執筆活動を行う。共著に『殺人者はそこにいる』など。

デイリー新潮編集部