波乱の半生を語ったインタビュー「前編」

『ミラクル・ガール』『ZUTTO』など1980年代後半から90年代に多くのヒット曲を送り出したシンガー・ソングライターの永井真理子が、10月13日にEX THEATER ROPPONGI(東京・六本木)でライブを開催する。かつては2年連続で横浜スタジアムでのライブを成功。時代のトップを駆け抜けた“ガールポップの女王”だった永井が、ENCOUNTにその波乱の半生を語った。前編は「大学進学を前に他界した父親」について。(構成=福嶋剛)

 1987年にデビューして今年で37年目を迎えました。しばらく活動を休んでいましたが、2017年の30周年を機に再び活動を始めました。最近は、こうやって取材を受けたり、いろんな現場に足を運ぶことも多くなりました。その度にたくさんの方から「昔、永井さんのファンでした」という声を掛けてもらい、うれしいやら恥ずかしいやら(笑)。ライブでも私の子どもより若い年齢のミュージシャンたちと一緒に演奏することがあります。とっても新鮮な気持ちで毎日を過ごしています。

 私が生まれたのは静岡県御殿場市で、父は中学校で生活指導をする国語の教師でした。母は自宅で美容院を営んでいて、兄と私の2人きょうだい。学校では誰かの後ろに隠れているようなおとなしい女の子でした。小学生の頃から兄が持っていたフォークギターを借りて練習をしながら遊んでいました。仲良しの友達がピンク・レディー好きで、私を誘って2人でよく歌まねもしました。将来の夢は保育園や幼稚園の先生になることでした。

 ある時、友達から「オーディション番組に出たいから、一緒について行って」とお願いされ、親に内緒で受けました。地元では有名な『土曜音楽会いちばん星みつけた』(テレビ静岡)という番組でした。友達は歌、私はギターとコーラスで海援隊の『贈る言葉』を披露しました。そしたら、合格しちゃったんです。「次の挑戦者はこの人たちです」と言われ、2人とも急に我に返りました。「学校にバレたらどうしよう」と焦ってしまい、それ以上に私は「父親にバレたら恐ろしいことになる」とおびえながら、すぐに出演を断りました。

 私の父親というのが、赤い洋服を着ただけで「そんなのはダメだ」と注意するくらい、家でもめちゃくちゃ生活指導が厳しい人でした。携帯電話がない時代に美容院の電話で友達と話していたら、げんこつが飛んできました。友達の家にお泊まりに行きたくて、友達のお母さんに説得してもらっても全然ダメ。中学生になると毎日のように怒られて、嫌で嫌で『早くこの家を出たい』とずっと思っていました。

 それで思い切って父に「全寮制の高校に行きたい」と相談したら、「お父さんが決めた学校ならいいよ」と言われて、岐阜県にある高校に行くことになりました。山奥の誰も近寄らないような場所にポツンと建っている学校で、下見をした時は大好きだったアニメ『キャンディキャンディ』のようなファンタジーな世界をイメージしました。ところが、いざ入学すると、想像とは正反対の厳しい寮生活が始まりました。

 朝6時に起床。10分以内に校庭に集まり、マラソンが始まります。終わるとすぐに校内と寮の掃除、先輩の靴磨き。自由時間は1日たったの15分間で、夜9時には消灯でした。父の厳しさから逃げようと思ったら、もっと厳しいところに来てしまいました(笑)。きっと、父は安心したでしょうね。そんな高校生活もあっという間に終わりが近づき、3年生の学園祭では実行委員に選ばれました。校則の厳しい学校で唯一、自由を許された学園祭は、生徒にとっての天国でした。私はステージで男の人と『ふたりの愛ランド』をデュエットして、みんなで盛り上がりました。歌っている時に今まで我慢してきたことから一気に解放され、「やっぱり、私は音楽が好きだ」って実感しました。

 寮生活も終わりを迎え、ようやく両親のありがたみが理解できるようになりました。父に対しても「逃げたい」という気持ちから、「もっと近づきたい」という気持ちに変わっていきました。ところが、受験シーズンに入った時、父ががんを患い、「余命半年」との知らせが届きました。頭の中が混乱する中で「今、私が父にしてあげられること」をいろいろと考えました。そこで出した答えは、「1日も早く進学を決めて、父が生きている間に安心させること」でした。

 その後、すぐに保育科のある短大に推薦合格することができ、すぐに父親の病院に向かいました。病床の父に「合格できました」と報告すると、すごく喜んでくれました。父からは「人生1回きりだから。後悔しないように」という言葉をもらいました。「やっと、気持ちだけは通じ合えたのかな」って思いましたけど、お互いに最後まで「ごめん」とか「ありがとう」って言えなかったんです。父は入学前の3月に亡くなりました。最後に何かしてあげたかったけど、結局は何もできなかった。私はずっとその後悔を引きずっていました。私の作る歌詞は、そんな「伝えたくても言葉にできない言葉」なんです。

排水溝に消えたペンダント

 亡くなる前、父が私に小さなペンダントをプレゼントしてくれました。マザー・テレサが来日して父の病院を慰問した際、患者にプレゼントしたものでした。私はそのペンダントを形見にして、肌身離さず毎日持ち歩いていました。短大に合格して、風呂なしアパートで一人暮らしを始めたのですが、ある日、銭湯帰りに立ち寄ったコインランドリーで、ペンダントを服のポケットを入れたまま洗濯機に放り込んでしまいました。ペンダントは、そのまま排水溝へ。あまりにもショックでしたが、同時に「形はなくなっても、ずっと私の心の中にいるから」と気付きました。そんな父との思い出を松本隆さんに歌詞にしていただいたのが、『かたちのないものが好き』(00年)という曲です。姿はなくても、今でも私の心の中に父がいて、私が迷った時には「頑張れ」って励ましてくれる。そして、私が大勝負に出る時には、怖い父が気合いを入れてくれる。そんな風に、いつも話しかけられる「お守り」みたいな存在なんです。

『ミラクルガール』や『ZUTTO』を歌っていた時も、何万人もの観客を前にステージで思い切りジャンプした時も、私の中にはずっと父がいました。そして、母親になって子育てを経験して、ようやく「父親の厳しさは本当の愛情だったんだな」って分かりました。私も時には厳しく息子をしかった時もありましたが、本気で向き合う大切さは父親からの教えだと思っています。

 そんな父にも優しい一面がありました。私が高校に合格した時、約束をしていたアコースティックギターをちゃんと買ってくれたんです。でも、その後に私が本気で音楽の道に進むとは思ってもいなかったでしょうね。次回は、デビューから現在までのお話をしたいと思います。

□永井真理子(ながい・まりこ)1966年12月4日、静岡・御殿場市出身。短大生時代、自らレコード会社にデモテープを持ち込み、87年に『oh, ムーンライト』でメジャーデビュー。『ミラクル・ガール』(89年)、『ZUTTO』(90年)などを大ヒットさせた。短髪、ジーンズ姿にパワフルな歌で10代を中心に人気が広がり、91年には『NHK紅白歌合戦』に初出場。92年、日本人女性ソロシンガーとして初の横浜スタジアムでのワンマンライブを成功させた。93年に結婚し、96年に第1子を出産。今年10月13日、EX THEATER ROPPONGI(東京・六本木)でスペシャルライブを開催。福嶋剛