40年ほど前にアルファ・ロメオと日産の合弁事業で誕生したものの、失敗車の烙印を押されたアルナ。このクルマを語るレアな夕べがこの春、イタリアのミラノで開催された。

史上、最も醜いアルファ?

「史上、最も醜いアルファ」と酷評されたアルナ誕生の背景には、1970年代末から続くアルファ・ロメオの危機的状況があった。会社を管理していたイタリア産業復興公社の官僚的体質や度重なるストライキ、それに伴う品質の低下が仇となり、同社は深刻な経営不振に。会社を立て直すようなヒット車を一刻も早く投入したいと考えていた。そこに加わったのが世界シェア10%を目指していた日産。当時、欧州各国では日本車の輸入台数規制が敷かれていたため、アルファ・ロメオと合弁契約を交わすことにしたのである。

両社がつくるクルマのベース車は1982年パルサーN12型に決定。日本から運んだボディ外板をナポリ郊外の新設工場で組み立て、アルファ・ロメオの大衆小型車、アルファスッドの水平対向エンジンや変速機と結合。既存工場で塗装と最終組立を行った。車名は合弁会社AlfaRomeo e Nissan Autoveicoliの頭文字をとってArnaとし、1983年9月のフランクフルト・ショーでお披露目された。

そのアルナの珍しいトーク・イベントが3月、ミラノ郊外の「コッツィ兄弟博物館」で開催され、約百名が来場した。登壇した評論家やデザインの専門家が証言するとおり、発売当時から本国での反応は冷ややかで、シチリア島で行われた試乗会では、「海に捨てろ!」との罵声が記者から飛んだという。電装系のトラブルに加え、デザインや操作性にも魅力がなく「月額27万リラ(当時のレートで約4万円)のローンで、君も今すぐアルフィスタ」といった宣伝戦略も高級車時代を知る従来ファンの神経を逆撫でしたようだ。結局、アルファ・ロメオがフィアットに買収された1986年に販売を終了。累計生産台数は5万3000台と、目標の年間6万台には程遠い数字となった。

だがトーク・イベントでは明るい話題も飛び出した。日産は失敗の教訓を英国での現地生産に生かし、2代目マイクラ(マーチ)の成功に繋げた。またアルナの広い室内とフラット4による低重心は当時から注目され、元F1ドライバーのクレイ・レガッツォーニは身障者用に改造したアルナを自分のスクールに導入。サーキット走行を諦めていた人々に門戸を開いた。

ちなみに先日、ネット上ではアルナが8000ユーロ(約130万円)で販売されていた。果たして勇気ある購入者は……。

文・写真=大矢アキオ ロレンツォ Akio Lorenzo OYA

(ENGINE2024年5月号)