プロボクシングの4大世界戦が6日、東京ドームで4万3000人のファンを集めて行われ、スーパーバンタム級の4団体統一王者の井上尚弥(31、大橋)は、挑戦者の元2階級制覇王者、ルイス・ネリ(29、メキシコ)に1ラウンドにプロアマを通じて初めてのダウンを奪われるハプニングがあったものの、2、5、6ラウンドに3度のダウンを奪い返して6ラウンド1分22秒に逆転TKO勝利した。一体、井上尚弥に何が起きていたのか。次戦は9月に国内で、試合後にリングに登場したIBF&WBO世界同級1位のサム・グッドマン(25、豪州)との指名試合になる予定だ。

(写真・山口裕朗)

 まさかの光景が目の前に広がった。
4万3000人のファンで埋まったドームが異様などよめきに包まれる。
緊迫のオープニングラウンド。体を密着させた体勢から左のアッパーを打った刹那、がら空きになった顎にネリの左フックが飛んできたのだ。井上は体を反転させるようにキャンバスに倒れた。すぐに体を起こすと片ヒザをついた姿勢のまま、冷静にギリギリまでレフェリーのカウントを聞いて、立ち上がりレフェリーに「OK!」とアピールした。
「ダメージはさほどなかったが、パンチの軌道が読めなかった。気負いもあった」
布袋寅泰の生演奏で入場した井上は花道で満員のドームを感慨深けに見渡していた。
「入場で、あの景色を見て舞い上がってはいないが、浮足立つような感じだったのかも」
いつもの井上ではなく集中力が途切れたのだ。
まだ時間は1分間残っていた。
大橋会長は「寿命が縮まった」という。
34年前にここ東京ドームで無敵のヘビー級王者、マイク・タイソンが、まったく無印のジェームス“バスター”ダグラスにKO負けするという“世紀の番狂わせ”が起きた。やはり東京ドームには、魔物が棲んでいるのか…ファンの頭に悪夢がフラッシュバックしたが、この世界最強の男は、暗黒の歴史を繰り返さなかった。
「普段のイメトレがこうして出た」
井上は常に「もしダウンを喫したらどうするか」をイメージしてトレーニングしている。モンスター流の危機管理だ。ネリはラッシュをかけてきたが、ガードを固めてクリンチ。パンチを見極めスウェーで外して、二の矢を浴びない。アッパーで反撃の意思を見せるので、ネリの追撃の勢いも止まる。井上は大丈夫だとばかりにニヤっと笑った。
「効いていることはなくて2ラウンド目からはポイントを計算していこうかなと。2ポイントリードされてるので、そこは冷静に戦うことができた」
戦前のプランを変更した。
「よし!」
井上は大きな声を発してコーナーを出る。
早くも沸き上がったナオヤコール。ガードを上げ、上体を小刻みに動かしながらジャブから組み立て直した。ネリが最終兵器の左を振り回してくるとステップバックで外す。そして何度目かの左フックをネリが打ってきた際にそれを外して電光石火の左フック。今度はネリがダウンした。
「ダウンはひとつチャラにできた。同等に立てたことで気持ち的にリセットできた」
1ラウンドを8−10で落としたが、このダウンでポイントはイーブン。井上が息を吹き返した。
実は、この左フックこそが“ネリ退治”の秘策だった。
真吾トレーナーとは準備期間の中で2つのことを徹底した。
「ネリが、わさわさとラッシュをかけてきても、最初は絶対に付き合わない。ステップバックで交わし、あるいはジャブをついてサイドに動く。それとネリには、得意のオーバーハンドの左フックを打ってきたときに、右のガードが下がるという致命的な欠陥がある。それをカバーするためにその左と右のアッパーをセットにして打ってくるが、スピードが違うので左フックが当たる」
ネリは、カウンターが怖くて仕掛けられなくなった。
井上が完全にペースを取り戻す。
ジャブからのワンツー、そしてサウスポーに有効なノーモーションの右が当たり始めた。
ドーピング疑惑と体重超過で、2度、ネリに人生を狂わされた因縁を持つ元WBC世界バンタム級王者の山中慎介氏が言う。
「ネリはいきたくてもいけない。仕掛けても当たる気もしなかったのでは。力の差があった。回を追うごとに差が広がった」

 4ラウンドには、なんと横を向いて、右手で「ここを狙ってみな!」とばかりに自分の顎をちょんちょんと触り、左手で「来い!」と挑発するパフォーマンス。ネリがあっけに取られていると、そこに右ストレートから左ボディのコンビネーションをぶちこみ、今度は正面で「ここだよ、ここ!」とまた顎を指さしてノーガード。不敵な笑みを浮かべた。
会場のボルテージがまた一段と上がった。
井上は、サービス精神満点のパフォーマンスにこめられた意図をこう説明した。
「見切ったというのもそうだけど、試合を通して主導権を握っていくために気持ちで上回っていかなくちゃいけない。そこは駆け引き、そういう意味でやった」
そして5ラウンドだ。ワンツーを次々とヒットされ、いらついたネリが頭から突っ込んできた。明らかな故意バッティング。たまらず井上はレフェリーに抗議した。そしてわざとロープを背負い、反則技も使えなくなったネリを誘いだして、左フック、体を沈めて、もう一度、左フック。ネリはヒザからダウンした。
もうフィニッシュは近づいていた。6ラウンドにコーナーにつめると左ジャブから右アッパー、右ストレートのコンビネーションブローがドスン。腰から落ちたネリは、ロープから頭がはみ出すほどのダメージを受けて立ち上がれなかった。レフェリーがTKOを宣告する前に勝利を確信した井上はコーナーに駆け上がり雄叫びをあげた。観衆の全員が立ち上がった。そして、ナオヤ、ナオヤの大コール。筋書きがあったような余りにもドラマチックな東京ドームのフィナーレだった。
「あのダウンがあってこそ、こういう戦い方ができた。自分の中でも激闘という試合を見せられた。最終的にはKOして勝つことができたので、これでまた一つキャリアを築けたのかなと思う」
ネリは、すぐに井上の元に駆け寄り勝利を祝福。井上のリング上での勝利者インタビューも紳士的な態度で聞き、その途中、井上が感謝の気持ちを伝えると2人はガッチリと握手をした。
「6年前の(山中氏との)第2戦は会場(両国国技館)で観戦していたのでファンの気持ちはしっかりと自分の中で受け止めていた。でも、ここ東京ドームでの戦いは井上尚弥VSルイス・ネリ。自分はこの戦いに集中することを心掛けてきた。勝った瞬間は、ネリに感謝という気持ちで、握手を求めた」
予想通りに大ブーイングで迎えられた“悪童”が、勇気ある挑戦者として井上家、そして日本のファンに認められた瞬間でもあった。
実は曲がったことが大嫌いな井上家の中でネリは「絶対に戦わないボクサー」のリストに入っていた。だが、井上が4団体を統一しネリがWBCの指名挑戦権を獲得したことで話が変わってきた。真吾トレーナーはネリ戦を受ける条件として「ルール違反をしないこと」を大橋会長にお願いした。今回、大橋会長が「1ポンドでもオーバーしたら試合はしない」と公言し、その場合の予備選手として、元IBF世界同級王者のTJ・ドヘニー(アイルランド)のカードを組んだことも、計量前日まで、5回も抜き打ちのドーピング検査を行うなど厳格な体勢を敷いたのも、すべて井上家の意向をくんでのものだった。

 

次戦の対戦候補のサム・グッドマン。17戦無敗のIBF&WBO1位だ(写真・山口裕朗)

 3度のダウンを喫したネリは病院に直行し記者会見をキャンセルした。その後、SNSを更新し「私は元気です。皆さんのサポートに感謝します、私たちはできる限りのことをしました」と素直に完敗を認めた。
当日チケットは、すぐに売り切れ、4大世界戦がスタートする前に場外に設置されたグッズ売り場の商品も完売した。
「野球のWBCを超える人の集まり方だったみたいだ」と大橋会長が言う。
日本ボクシング界にとっての歴史的な1日は、井上という不世出のボクサーがいたからこそ実現した。その期待感は無敵の井上が「プレッシャー、重圧はあった」と振り返るほどの重荷に変わった。しかし、井上の「強くなりたい」という消えることのない心の灯が、そういう外圧をも力に変えて、モンスターをさらに怪物へ進化させていく。
「本当は28、29歳で引退してもらいたかった」という真吾トレーナも、「まだ尚はピークじゃない。右肩上がりに成長しています」と証言した。
「今回メキシコの若手のホープをスパー相手として何人か呼んでもらいました。こっちが疲れるとか、どっかで押されとかがあってもおかしくない勢いがあった、連日、全ラウンドで完璧に圧倒しているんです。世代交代なんてまだまだ先なんだなと。今、尚は何歳で引退するって言っているんでしたっけ?」
リング上には次戦の対戦候補のグッドマンが上がった。
「次戦、9月頃、隣にいるサムグッドマンと防衛戦をこれから交渉していきたいと思う」
18勝(8KO)無敗のオーソドックススタイルのストレートパンチャー。昨年は4試合を戦い、予備カードでKO勝ちした元IBF世界同級王者のドヘニーや井上に挑戦状を叩きつけていた元WBA世界同級暫定王者のライース・アリーム(米国)ら骨のある相手を判定で破ってきた。そのグッドマンは、「自分もベルトが欲しくてここまで戦ってきた、絶対にやりましょう」と応じた。
グッドマンは、筆者の取材に「井上に勝つ方法があるのはわかっている。自信は間違いなくある。私は戦いに向かうすべての試合に自信を持っているんだ」と豪語した。
次から次へと“刺客”が現れるのは最強王者の宿命である。
34年ぶりの東京ドーム興行にふさわしいファイトを見せた井上の最強、最高を求める戦いはまだ終わらない。
会見の最後。
WBCから特別に贈られたダイヤモンドベルトを井上は、感謝の言葉と共に大橋会長にプレゼントした。こういう人間性が井上をさらに内側から強くするのである
(文責・本郷陽一/RONSPO、スポーツタイムズ通信社)