そうでありながらも、将来のことをいろいろと話す道兼。それは「実に無残」でありましたと『大鏡』には書かれています。

995年4月27日に関白宣下を受けた道兼でしたが、病により、5月8日に亡くなります。余りにも短い関白ということで、道兼は「七日関白」と称されています。

道長の前にライバル立ちはだかる

流行していた疫病による死だと言われています。同じ年、現役の公卿が8人も亡くなっていますが、その多くは疫病とのことです。

道隆・道兼という兄が相次いで亡くなり、いよいよ道長政権の誕生かと思いきや、道長の前にはまだ立ちはだかる壁がありました。それが、道隆の子・藤原伊周だったのです。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

著者:濱田 浩一郎