◆漫画家・板垣恵介さんからの電話

 7日の朝、携帯電話が鳴った。画面を見ると人気格闘技漫画「刃牙」シリーズなどを描く漫画家の板垣恵介さんだった。

 「すごい試合だったねえ。ファイティング原田の時代からボクシングを見ているけど、あんな素晴らしい試合を見せてくれるなんて本当に感謝。東京ドームで井上選手のテンションが必要以上に高かった。井上選手も人の子なんだなと思ったよ」

 板垣さんは6日にスーパーバンタム級4団体統一王者井上尚弥(大橋)と挑戦者ルイス・ネリ(メキシコ)の一戦を東京ドームで観戦。食事を済ませ、寝ようと思って横になったが、脳が勝手に試合を反すうしていたという。それくらい興奮させられる試合だった。

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◆パンチの振りが大きい…力んでいる

 確かに井上尚も人の子だった。これまで「モンスター」の異名通り、リング上で一切の隙をみせず、冷静に闘い、圧倒的な強さを誇ってきた。だが、入場時から明らかに気合が入りすぎている。東京ドームのチケットは完売し、超満員となる4万3000人が駆けつけた。観客で埋め尽くされた景色がよほどうれしく、高揚していたのだろう。

 ゴングが鳴る。井上尚が放つパンチの振りが大きい。いつもより力んでいる。試合のピークがいきなりやってきた。開始1分40秒。接近戦で井上が左アッパーから右フックを放とうとした瞬間、ネリが顔面への左フック。被弾した井上尚が倒れた。プロ・アマを通じて初のダウンだ。

 「(連勝が)止まっちゃう。こういう最後か…」

 セコンドの大橋秀行会長の頭に一瞬、敗戦がよぎった。まだ体が温まっていない試合早々にパンチを食らい、リングに沈んでいった数々のボクサーを見てきたからだ。

 「1ラウンドのパンチは思っている以上に効くんだよ。タイミングで倒されたのではなく、ネリは左をフルスイングしていた。尚弥は相当ダメージがあったと思う」

 大橋会長だけではない。リングサイドで見ていた井上尚の弟・拓真も目を疑った。

 「心臓が止まるんじゃないか、というくらい焦った」

◆まさか…東京ドーム4万人から悲鳴

 井上尚がリング上を転がった。会場は悲鳴に包まれる。誰もが目の前の光景を信じられない。ドームにいる4万人超の中で唯一冷静だったのが井上尚だった。

 非常事態に驚いたような表情を見せながら、キャンバスに片膝をつき、レフェリーが「カウント8」を数えるまでゆっくり休んだ。

 生涯初のダウンでパニックになってもおかしくない。焦ってすぐに立とうとして、足元がふらついたところをレフェリーに止められる選手も多い。

 大橋会長が感心した口調で言った。

 「やっぱりさ、倒されたら人はすぐに立とうとするんだよ。でも尚弥は(カウント)ギリギリまで休んで、ベテランみたいだったね」

 井上尚はその場面を振り返って、言った。

 「イメージトレーニングしていたので。しっかりと8カウントまで膝をついて休む。そこの数秒が大事。そういうシーンが訪れたら、っていうのは日頃から考えるようにしていて、それがとっさに出た」

 プロ27戦目、しかもそれは大舞台で起こった。スパーリングでもダウンをしたことがないのだから、練習のしようもない。ダメージもあっただろう。ダウン後でもイメージ通りに遂行する。これまで見せたことのない「モンスター」の新たな一面だった。

◆なぜ、イメージを実践できるのか

 その言葉を聞いて、思い出したことがある。2020年10月のジェーソン・モロニー戦。井上尚は相手のジャブ2発に左フックのカウンターを合わせて、ダウンを奪った。モーションの少ない素早いパンチに対して、カウンターを打つなんて…と驚き、「なぜ打てるのか」を尋ねた。

 「それはですね、想定して練習しているから。それだけなんです。練習していない選手に、やれ、と言ってもできないけど、自分は反復で練習しているんで。自分だって、練習していなかったら打てないし、幅を広げようとか、いざのときのためにこれをやっておこう、としっかりやっているだけですよ」

 あらゆる場面を想定し、アドレナリンが出る本番でもできるくらいまでイメージを頭に植え付けているのだ。

 ダウンを喫した井上尚はゆっくりと立ち上がった。レフェリーが「ボックス」と宣告し、試合は再開した。だが、まだ残り1分以上ある。ネリの突進をしっかりクリンチで食い止める。これもまた落ち着いた、卓越した動作だった。その後はディフェンスでネリのパンチをかわしてピンチを脱し、1回を終えた。

 2回に左フックで井上尚がダウンを奪い返すと、一方のネリは休むことなくすぐに立ち上がった。3回からは井上尚本来の動きだ。一方的な展開になり、5回にも左フックで倒し、迎えた6回。コンパクトで強烈な右でネリの首をロープに打ちつけ、戦慄(せんりつ)のTKO勝利。倒され、倒して、最後は絶大なインパクトを残した。

 「歴史に残るスリリングな試合だった」

 大橋会長がそう表現するように、試合の最初から最後までドームが熱狂していた。

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◆何度も演じてきた想像を超える試合

 「見せ場をつくるよね。1回にダウンして、2回に奪い返すって、世界戦ではなかなかないでしょ。大場政夫とオーランド・アモレス戦を思い出したよ」

 携帯から板垣さんの感嘆の声が漏れてきた。

 27戦全勝。軽量級でありながら24KO。井上尚は想像を超える試合を何度も演じてきた。一気に2階級上げて4度倒したオマール・ナルバエス戦、70秒KOのフアンカルロス・パヤノ戦、ノニト・ドネアとの2試合、スーパーバンタム級初戦のスティーブン・フルトン戦しかり。

 そして今回、ボクシングでは34年ぶりの東京ドームで、主人公の井上尚がヒールの敵役ネリに倒され、そこから逆転し、観客を歓喜させた。誰もが満足して帰路に就いた。

 「現実があんなすごい試合なんだからさ。創作ではどうするか」

 板垣さんはそうつぶやいた。

 まるで漫画のような世界。それが現実のボクシングで起きている。(森合正範)

▼森合正範 1972年6月16日生まれ、横浜市出身の51歳。大学卒業後、スポーツ新聞社を経て2000年に中日新聞社に入社。「東京中日スポーツ」でボクシングを担当、その後、「中日スポーツ」で中日ドラゴンズ、「東京新聞」でリオデジャネイロ五輪や東京五輪を担当した。著書には「力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝」(東京新聞)などがある。

「怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ」で2023年度のミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した。