朝ドラことNHK連続テレビ小説「虎に翼」の好調が続いている。今週は伊藤沙莉(29)が演じるヒロイン・猪爪寅子たちが明律大法学部を卒業。高等試験司法科(現・司法試験)に挑む。旅立ちや喜び、挫折が描かれる。そんな彼女たちを温かく見守るのが、小林薫(72)が演じる穂高重親教授。ベテランの名優・小林の実像に迫る。【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】

穂高教授も小林も骨がある

 穂高教授は温厚で飄々としているが、気骨に満ちた人物。権力者たちが仕組んだ冤罪「共亜事件」の裁判では、寅子の父親・猪爪直言(岡部たかし)の弁護人を引き受け、検事に対し「自白の強要は人権蹂躙ではないか」と問い質した。結果、直言は無罪となった。

 穂高を演じる小林も骨がある。1969年、京都府立洛東高の3年時に退学処分を受けた。理由は学生運動。当時は日米安保問題や沖縄返還問題などがあり、高校生を含めた学生たちが政治の在り方に異議を唱えていた。

「学生運動っていったって、今から思えばかわいいもんでね。お祭りみたいに考えていたな。月1回、デモや集会に出て」(小林、以下同、「JUNON」1983年2月号)

「お祭りみたい」と振り返ったのは照れではないか。大阪の演劇学校で学んだあと、20歳のときに入った劇団も、作家の故・唐十郎さん(5月4日死去)が主宰していた紅テントこと「状況劇場」。既存の演劇を否定する前衛劇団だった。

 同劇団が芝居を見せるのは東京・新宿の花園神社の境内などに組まれた紅色のテント。客席はゴザ。俳優と観客が一体化していた。歌舞伎俳優の故・18世中村勘三郎さんは「歌舞伎の原点だ」と評した。上演される芝居は幻想的かつ肉感的なのが特徴だった。

魅力を膨らませた交友関係

 小林によると、唐さんから指導されたのは技術論より精神論。

「(唐さんから)何かに触れて、感性を磨け。つまらんものとは付き合うなと教えられた」(「MORE」1982年2月号)

 今に続く小林という俳優の核心はこの言葉にあるだろう。

「小林さんはテクニック一辺倒の人ではない。演出側や観る側は小林さんの内面から滲み出るものにも惹かれる」(元TBSドラマプロデューサー)

 小林は唐さんの教えどおり、さまざまな本や映画に触れ、自分の内側を磨いた。情熱を持って何かに取り組む姿勢も唐さんから学んだ。そんな小林には数多くの人が引き寄せられた。彼らとの親交も小林の魅力を膨らませた。

 小林の友人や飲み仲間は、作家の故・伊集院静さん、故・忌野清志郎さん、故・松田優作さん、作家の村松友視氏(84)たち。類は友を呼ぶというのは本当らしく、やはり骨のある人が目立つ。

 やがて小林は「状況劇場」の看板俳優となる。もう1人の看板は故・根津甚八さん。内面から出るものを見せるという点で2人は一致していた。

カビだらけの椎茸で食中毒

 同劇団入りから、しばらくは無給で、3畳のアパートで暮らした。やっと風呂付きの住まいを得たときには30歳になっていた。

「僕らの世代の役者で、ちゃんと20代でメシを食えてた奴なんかいないんじゃないですか。バイトはやりましたよ。ただ、僕の場合はいたってシンプルで、キャバレー関係のバイトしかなかった。それもチラシ撒きとか」(「sky WORD」2008年2月号)

 小林の内面からはユーモアも滲み出ているが、金のなかった劇団員時代のエピソードは、どこかおかしい。

 ある日、同劇団の美術担当だったクマさんこと芸術家の篠原勝之氏(82)と仲間のアパートに行ったところ、腹が減った。でも、仲間もやっぱり金がなく、食べるものが見当たらない。

 収まりがつかない小林とクマさんが台所を漁ったところ、鍋に入ったカビだらけの干し椎茸が出てきた。クマさんが「これは食える」と自信ありげに言うので、煮込んだ上、みんなで食べた。

 だが、やはり口に出来た代物ではなかったらしく、小林は食中毒を起こし、約1時間にわたって吐き続ける。一方、クマさんも不調を感じたが、お茶をガブ飲みしたら直ってしまい、平気な顔をしていたという。食料のある仲間のアパートに小林が泊まりに行き、冷蔵庫がカラになるまで居続けたこともあった。

人気を不動のものにした「ふぞろいの林檎たち」

 唐さんの教えを吸収し、良き仲間も得た。熱烈なファンも数多く獲得した。しかし、29歳だった1980年に劇団を去る。根津さんは先に退団していた。

「1度、パッと解体して、次は何をやりたいのかを自分で探してみたかったんだ」(「non・no」1982年3月5日号)

 もっとも、唐さんが小林に惚れ込んでいたため、円満退団とはならなかった。唐さんの著書『唐十郎血風録』(文藝春秋)によると、退団を思いとどまらせようとした唐さんが、包丁を持参して小林のアパートに乗り込んだ。

 その動きを小林は事前に察知し、アパートから脱出。なんとか刃傷沙汰は避けられた。物騒な話だが、やはりクスリとしてしまう。

 退団後はドラマ、映画からの出演依頼が相次ぐ。故・緒形拳さんが主演したNHK大河ドラマ「峠の群像」(1982年)で愚直な赤穂浪士・不破数右衛門を演じたところ、その渋い演技が評判となった。

 翌1983年、TBS「ふぞろいの林檎たち」に出演すると、人気は不動のものとなる。主人公の4流大生・仲手川良雄(中井貴一)の兄・耕一役を演じた。耕一は家業の酒屋を1人で黙々とこなす一方で病弱な妻の幸子(根岸季衣)を守り抜く男だった。

 当時はバブル前夜。地味な暮らしは敬遠されがちだった。しかし、耕一の実直な生き方は観る側の胸を突いた。

ジョークを言わずに笑わせる

 小林はこの作品を書いた脚本家の故・山田太一さんら多くの制作者に愛される。特にぞっこんだったのはTBS出身のプロデューサーで演出家の故・久世光彦さん。同局「夜中の薔薇」(1985年)など「向田邦子シリーズ」に欠かせない俳優となった。このシリーズで演じた男は、いずれも哀感を漂わせていた。

 一方で久世さんは小林のコメディ俳優としての才能も開花させる。同局「キツイ奴ら」(1989年)で、金庫破りを得意とする主人公のインチキセールマン・大曾根吾郎を演じさせた。

 吾郎はヤクザから毎月100万円の借金返済を迫られており、悪さを重ねて返し続けるのだが、たびたび「キツイなぁ」とボヤく。吾郎の悪戦苦闘ぶりが笑いを誘った。

 ジョークなど一言も口にしないのに、観る側を吹き出させる。今も続く小林の持ち味の1つだ。日本テレビ「コタツがない家」(2023年)での山神達男役もそう。ふざけているわけではないのだが、その日常が突っ込みどころだらけで、やはり笑いを誘った。

 一方で映画にもなったTBS系(制作・MBS)「深夜食堂」(2009年)では主人公のマスターを演じた。ニヒルだが、人情に厚い男だった。

 これまでに演じた役柄はヤクザ(1988年の映画「悲しい色やねん」など)から裁判官(2009年のNHK「気骨の判決」)まで、途方もなく広い。どんな役にも現実味と説得力を持たせられる。膨大な量の本や映画に接し、数多くの友人や仲間と付き合ったからだろう。

「僕にとっての笠智衆」

「深夜食堂」には、マスターによる「ウチに来るときには肩書きを外してきな」というセリフがある。これは小林が考えた。

「暖簾をくぐって入ったら、どんな人にも区別がないんですよね」(『クイックジャパン』2010年4月号)

 小林の人間性の一端をうかがわせる。一方で素顔をさらすのを嫌がり、バラエティ番組には一切出ない。フジテレビ「笑っていいとも!」(1982〜2014年)のテレフォンショッキングのコーナーにも何度か誘われたが、全て断った。

「そういう番組に出ると、どんな役を演じてても結局こういう人なのね、って思われるのが凄く嫌で」(「Studio Voice」1986年10月号)

 私生活では1984年に女優の中村久美(62)と結婚するが、95年に離婚。2009年に女優兼モデルの小梅(50)と再婚した。2人は永瀬正敏(57)が主演した日本テレビ「私立探偵 濱マイク」(2002年)で共演していた。当時、22歳の年齢差が話題になった。

 翌2010年には長男が生まれた。成人するとき、小林は78歳。しかし、そのときもドラマ、映画への出演依頼が絶えず、活躍を続けているに違いない。

 映画「それから」(1985年)などで組んだ故・森田芳光監督から「僕にとっての笠智衆」と言われたことがあるという。そういえば、穏やかで淡々とした穂高教授は、故・笠智衆さんのイメージと重なる部分がある。

 今後の小林はより老練された演技を見せてくれるのだろう。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年にスポーツニッポン新聞社に入社し、放送担当記者、専門委員。2015年に毎日新聞出版社に入社し、サンデー毎日編集次長。2019年に独立。前放送批評懇談会出版編集委員。

デイリー新潮編集部