「一番恥ずかしい本塁打でした」

 今年も5月28日からセ・パ交流戦が幕を開ける。過去18回(2000年はコロナ禍で中止)にわたる交流戦の中から記憶に残るシーンを集め、3回にわたって紹介する。第1回は、交流戦出場はわずか2シーズンながら、交流戦史上初の逆転満塁本塁打や死球騒動など、ファンに強烈なインパクトを与えた巨人・オリックス時代の清原和博の名場面、珍場面を紹介する。【久保田龍雄/ライター】

 交流戦初年度の2005年、開幕から巨人の4番を打っていた清原は、5月2日に急性胃腸炎を発症し、2試合を欠場。スタメンに復帰したのは、同年から導入された交流戦の初戦、5月6日の楽天戦だった。

 5番DHとして出場した清原は交流戦初安打(3打数1安打)を記録すると、翌7日の楽天戦では、3回に一場靖弘の真ん中低めカーブを左翼席に運ぶ交流戦第1号アーチを放った。

 だが、「ちょっと(タイミングを)抜かれたので、まさかホームランになるとは思わなかった」と一塁に全力で走り、一塁ベースを回った直後、足を滑らせてズデーンと背中から一回転する大転倒。慌てて起き上がった清原は「打球はどこや?」と目を白黒させたが、周囲から本塁打と教えられると、「入ったの?本当?」と苦笑いしながら、ダイヤモンドを1周した。

 このシーズン10号で、史上5人目の20年連続二桁本塁打を達成した清原だったが、「これまで(502本)の中で一番恥ずかしい本塁打でした。思い出になる? そうやな」と照れまくりだった。

堀内監督とローズが制止

 それから4日後、5月11日のオリックス戦で新たな事件が起きる。

 9回に起死回生の右越え同点ソロを放った清原は、1点を追う延長11回裏1死無走者で打席に立ったが、山口和男の147キロ直球がヘルメットを直撃する。むっくりと起き上がった清原は、ヘルメットを叩きつけると、鬼の形相で「おい、謝れ!こっちに来いや!」と叫びながら、マウンドに向かおうとした。ベンチからローズとともに堀内恒夫監督が飛び出し、「動くな。頭に当たったんだ!」と制止したので、騒ぎは収まったが、西武時代から愛用していた特大サイズのヘルメットは、変形して塗装がはがれ、ライオンズブルーがむき出しになるほどの衝撃だった。

 そして、この死球が劣勢挽回につながる。山口が危険球退場になり、清原に代走・黒田哲史が送られて試合再開後、巨人は阿部慎之助の右前安打でチャンスを広げ、2死後、堀田一郎の左前タイムリーで4対4の引き分けに持ち込んだ。

 堀内監督も「本当は負け試合。清原への死球があって流れが変わった。最後は勝ちたかったけど……」と敗戦の危機を救った主砲の“名誉の負傷”に感慨深げだった。

カブレラに向かって「おい、これを見てみいや!」

 死球禍は5月13日の西武戦でも付いて回った。2点を先行された直後の2回1死、清原は西口文也から左前腕尺骨付近に死球を受け、大事を取って3回の守備から交代した。

 事件が起きたのは、その3回だった。立ち上がりから不安定な投球が続いていた巨人の先発・マレンが、4番・カブレラの左脇腹にぶつけてしまう。報復死球と思い込んだカブレラは、声を荒げてマウンドに詰め寄り、たちまち両軍ナインによる乱闘に発展した。

 ベンチ奥でアイシング中の清原も騒ぎを聞きつけ、腕にアイシングしたままの状態でグラウンドへ。一塁付近で複数の選手に羽交い絞めされているカブレラに向かって、「おい、これを見てみいや!」と自らの左腕を指差してアピールした。「オレも我慢しているんだから、お前も我慢しろ」と言わんばかりのパフォーマンスが功を奏してか、間もなく乱闘も収束した。

 ちなみにこの試合は、西口が9回2死まで無安打無失点を続けながら、清水隆行に右越えソロを浴びるという通算2度目の“ノーノー未遂”が1面トップで大々的に報じられた結果、同じ試合で死球騒動があった事実は、意外に忘れられがちだ。

“速球王”クルーンから放った衝撃弾

 同年限りで巨人を戦力外になった清原は、オリックスに移籍した翌2006年も、交流戦で並々ならぬ存在感を発揮している。

 5月26日の横浜戦では、2回の大阪ドーム初打席で、三浦大輔から史上12人目の4000塁打となる先制ソロ。「去年からこの日を夢見てました。大阪のファンは東京ドームと違って(別の意味で)温かいですね。(4000塁打は)ボテボテの内野安打でなくて良かったです」とユーモラスにコメントした。

 さらに翌27日の横浜戦では、3対6の9回裏1死満塁のチャンスで、当時NPB最速の161キロを誇っていた“速球王”クルーンとの対決が実現。「正直(打席が)回ってきたらヤバイな」と思っていたそうだが、カウント1‐1から外角低め152キロ直球を右に流し打つと、右中間席に飛び込む野球人生初の逆転満塁サヨナラ本塁打となった。

「もう頭パニックや。野球やってて良かった」

 交流戦でも初の快挙に、清原は「もう頭パニックや。野球やってて良かった。プロ21年間で一番うれしいホームランや。自分の力じゃないような気がする。ファンが、チームメイトが、(昨年12月に亡くなった)仰木(彬)さんが打たしてくれたんやと思う」と喜びを爆発させた。

 6月14日には古巣・巨人戦で2点リードの7回に代打として登場。総立ちになった右翼席の巨人ファンから「キ・ヨ・ハ・ラ〜ッ!」の大声援を受けた清原は、遊ゴロで一塁を駆け抜けた直後、右翼席に向かってヘルメットを掲げ、エールに応えた。

「ビックリしたし、うれしかった。巨人が負けてる展開でやで。(巨人で)9年間身を削ってやって来て良かった」(清原)。

 同年は6月19日の交流戦最終試合でも巨人と対戦し、4回にグラボースキーの先制3ランを呼び込む中前安打で出塁した清原は、長嶋茂雄(巨人)を抜いて歴代9位(当時)の通算1271得点を達成。そして、これが清原にとって最後の交流戦出場試合となった。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部