暗黒時代のあだ花の亀新フィーバー

1987年に最下位となった吉田監督が退任すると、村山実(みのる)監督が就任。しかし、88年に6位、89年も5位に終わり、2年で退陣。

90年から指揮をとった中村勝広(かつひろ)監督も2年連続最下位スタートと目も当てられない惨状が続きました。87年からの5年間で実に4度の最下位を経験したのです。


『虎と巨人』(著:掛布雅之/中央公論新社)

突如、躍進を見せたのが1992年のシーズンでした。真弓明信、岡田彰布、平田勝男(ひらたかつお)の85年の日本一メンバーから世代交代が進み、入団5年目の亀山努(かめやまつとむ)、3年目の新庄剛志(しんじょうつよし)が台頭。大方の予想を覆してシーズン最後まで優勝争いを演じ、「亀新フィーバー」が巻き起こりました。

結果はヤクルトの優勝で、阪神は巨人と並ぶ同率2位でした。この年は阪神の歴史的な転換期でもありました。甲子園球場のラッキーゾーンを撤去したのです。後に打者が育たない球場として、タイガースを苦しめることにもなりました。

あと1歩で優勝を逃した悔しさを晴らすべき93年は4位に終わると、ここからさらなる暗黒時代に突入します。

2003年に星野仙一監督のもとで優勝するまで、実に10年連続Bクラスに沈むのです。しかも98年から2001年までは4年連続最下位。まさに底なしの低迷でした。

この暗黒時代を外から見ていた私はOBの一人として責任を感じていました。後輩たちにうまくバトンをつなげなかったことです。

1988年に33歳の若さで引退しましたが、92年まで現役を続けていれば37歳です。故障さえなければ、年齢的には十分にやれていたはずです。

あの亀新フィーバーで沸いた92年のシーズンに自分が加わっていれば、違う結果に導けたかもしれません。いろんな経験を後輩たちに伝えることができたかもしれないと複雑な思いで見ていたのです。