「お亡くなりになった方々のことを思えば、こんなことを考えるだけでバチが当たるのかもしれないけど……。気持ちがへこんだときなんかに、ふと思ってしまうんです。“私たちこの先、生きとってどうするんだろう”って。心から笑える日なんか、本当に来るんだろうかって」

まもなくゴールデンウイークを迎えようという4月半ば。本誌記者を案内しながら被災した町を歩く女性は、絞り出すようにしてこう打ち明けた。塩士純永さん(67)。その横顔は悲しみに沈み、足取りは限りなく重く見えた──。

1月1日、午後4時10分ごろ。石川県能登地方を震源とするマグニチュード7.6の巨大地震が発生、最大震度7を観測した。建物の倒壊や津波による被害、さらに地盤の液状化など、地震の影響は広範囲に及び、石川県内の死者数は関連死も含めて240人を超えた。被災した市町村のなかでも、100人以上が犠牲になった輪島市の被害は甚大だった。有名な「輪島朝市」が開かれる朝市通り一帯は地震による大火に見舞われ、およそ300棟、約5万平方mが焼失。

がれきの処理が進まずにいる町の一角で、純永さんは足を止めた。そのすぐ後ろ、傾いた電柱には、その場所に店があったことを示す矢印とともに「藤八屋」と記された看板広告が焼け残っていた。

「まだ、建ててから、わずか14年しかたってなかったんですよ」

藤八屋──。明治時代から漆器の製造と販売を手がける、輪島塗を代表する「塗師屋」の一つで、得意先には「野田岩」「つきじ宮川本廛」「くろぎ」「竹やぶ」「すきやばし次郎」といった老舗や一流店が名を連ねる。G20大阪サミットの晩餐会で、乾杯に藤八屋の引盃や多くの器が使われたことも。純永さんの夫・正英さん(76)は藤八屋の3代目だ。

夫婦が、二人三脚で築いた“城”、それが朝市通りにほど近い場所にあった藤八屋本店。土蔵をイメージした白壁に切り妻屋根が美しい、自慢の店だった。建てられたのは、その歴史に照らせばごく日の浅い’10年のことだ。純永さんの言葉どおり、まだ、ほんの14年しかたっていない。なぜなら、藤八屋が被災するのが、今回が初めてではなかったからだ。



■結婚目前に、新居が突風被害に…

「新聞などには、うちは『2回被災した』と書かれていますけど、本当はね、今度で3回目なんです」

山本町の工房兼自宅でのインタビュー中、純永さんはため息交じりにこう明かした。彼女の話す「最初の被災」は結婚目前のことだった。

「前年の夏から新居を建て始めていたんです。その場所がここ、山本町なんですけど。棟上げを済ませたのがその年の暮れ。ところが、年が明けて1月、夫と打ち合わせをしていたところに、ご近所の方から電話が。『お宅が壊れてるよ』って。突風で、完成間近の家が倒壊してしまったんです」

数千万円を借金して建築費を工面していた。もう、予算はほとんど残っていなかった。

「銀行も追加融資はしてくれず、仕方なく内装や仕上げに使うはずだった資金でもう一度、家の外側だけを建て直して。だけど、新婚当初は寝るところもないありさまで。私たちは当初、物置部屋に布団を敷いて寝ていました。でも、それでは落ち着かないので、近くの市営住宅を借りて、5年間暮らしたんです」

新婚早々、経済的に大きな打撃を受けた2人。がむしゃらになって働き、抱えた借金をまもなく完済できると思った矢先に“2回目”の災難が訪れる。’07年3月25日に発生した大地震だ。

「日曜日でした。地震発生時、私はもう一つのお店のほうにいて、本店には、当時そこで寝起きしていた主人の母だけがいたんです」

震度6強の揺れが収まると、純永さんはすぐ、義母の元へ走った。

「当時の本店は道路に面した前側が鉄筋3階建て。奥が木造の建物で、それ以外に明治時代の土蔵がありましたが、店に入ったら、商品がぐちゃぐちゃに散乱し、足の踏み場もない状態。『お義母さん、大丈夫!?』と声をかけたら、奥から『蔵、蔵を見て!』という義母の声が聞こえて。言われるがまま蔵を見に行くと壁が傾き、屋根が崩れてしまっていて。蔵の中から空が見えたのを覚えていますね」

木造部分はもちろん、鉄筋の建物も歪んでしまって、使い続けることは不可能と判定された。すべて解体し、建て直すほかなかった。

「時間もかかりましたけど、お金も。市からの補助や、保険も入れると億近くかかりました」

こう話す純永さん。隣で黙って聞いている正英さんに向かって「この人はお金のことには関与しないの、気に留めないから」と苦笑い。正英さんは言う。

「どうせ建て直すなら塗師屋魂を込めたいいものにしたい、そういう思いだけが強かったですね」

正英さんは新たに建てる本店の図面をもとに、自ら方眼紙で立体模型を作るほどの力の入れようだった。このとき、藤八屋の再建には多くの人が手を差し伸べてくれたという。純永さんがこう続ける。

「予算が限られているから、壁はクロス張りにしようと思っていたら、製材会社の社長さんが『予算、いくら? その予算で材木を出してあげるから木の壁にしなよ』って言ってくださったり。お取引先の鰻店の社長は、太くて立派な梁を贈ってくださったんです」

正英さんは「みなさんに助けていただいて、本当にありがたかったです」と、何度も頷く。こうして’10年、藤八屋本店は再建された。寄せられた善意に応えるように、2人はなんとも贅沢な店舗を造り上げた。太い梁や柱、床や壁板にも漆をふんだんに使ったのだ。漆を拭いたのはもちろん正英さん、それに藤八屋の職人たち。スマートホンの中に残された往時の本店の写真を見せながら、純永さんは嬉しそうに、懐かしそうに振り返った。

藤八屋が手がける漆器の、「上塗」と呼ばれる最後の仕上げは、必ず正英さんが行っている。そして、純永さんはその一つひとつに蒔絵で「輪島藤八作」とサインを入れるのだ。純永さんはしみじみとした口調でこう教えてくれた。

「漆器を出荷するときは私たち、わが子をお嫁に出すような気持ちです。そのおうちでかわいがってもらいなさいね、と」

建物全体が輪島塗の芸術作品だった藤八屋本店。2人にとってそこもまた、自慢の子供のような、大切な存在だったに違いない。

10年先も堅牢でお客様から喜ばれるものを作り続けていたい

大禍を乗り越え、やっとの思いで再建した店が、あろうことか今年1月に発生した能登半島地震によって全焼してしまったのだ。

「前回、本店を建ててくださった工務店さんに先日、改めて相談したら、もう先約があって『藤八屋さんに取りかかれるのは5番目です』と言われてしまって……」

一面の焼け野原を眺めながら、純永さんは深くため息をついた。

「地震から4カ月、手つかずのこの一帯が更地になるのに、あと何年かかると思います? 3年? 4年? そこから、再建できたとして、うちの店の復興は、10年がかりになってしまいますね」

それでも、3月下旬──。朝市通りから車で10分ほどの、倒壊を免れた山本町の工房兼自宅で、正英さんは漆器作りを再開した。純永さんも復興のため奔走し始めた。

「ただ願うのは、10年先もこの手でいいものを、堅牢でお客様から喜ばれるものを作り続けていたい、それだけ」(正英さん)

純江さんは次のように続ける。

「誰かにも言われましたよ、『すごいね、何があっても立ち上がるよね』って。いやいや、とんでもない。もうね、ずっとずーっと被災で抱えた借金を返済し続けてるんです。最近つくづく思います、なんのために生きてるんだろうって(苦笑)。ただね、このままで人生終わってしまったら、私の一生が『やった!』と振り返ることができないものになってしまう気がする。だからやっぱりもう一度、立ち上がるしかないんですよね」(純江さん)

何度、打ちのめされようとも立ち上がり、2人は前を向く。「世界に誇る、輪島塗を守る」、そんな強い思いを胸に。

【後編】「塗れたぞ!」…輪島塗老舗が踏み出した、能登半島地震から復興への一歩へ続く