クルマが普及した理由

 飲酒運転・ひき逃げ・店舗突入が毎日のように報じられる。なぜこのような状況が常態化したのか――。一言でいえば「国策」の結果である。

 日本でモータリゼーションが始まる1960年代に、ある高名な経済学者が

「できるだけ多数の国民が自動車を保有することが交通政策の理想」

だと主張して、

1.自動車税の低減
2.自動車保険の普及と低率化
3.自動車ローンの低金利策
4.高校体育実技で運転実習を行う
5.運転免許を簡単に取れるようにする
6.自動車取締法規を簡素化する

などと提言している。

 さらに道路がなければ自動車は機能しない。戦後すぐに衆議院議員となった田中角栄元首相(1918〜1993年)が主導して創設された道路特定財源をはじめ、自動車の普及には道路建設の推進も不可欠な国策であった。

 誰でも簡単に免許が取れて、クルマを所有し、走らせるほど税制を通じて道路が作られ、それがさらにクルマの普及をうながすサイクルは、国策として作られたものである。

宇沢弘文『自動車の社会的費用』(画像:岩波書店)

話題になった日本人経済学者の著書

 このように国を挙げて自動車普及が推進されていた状況のもと、1974(昭和49)年に経済学者(ノーベル経済学賞に最も近い日本人といわれた)の宇沢弘文氏が『自動車の社会的費用』を著した。

 当時は年間の交通事故死者が1万6000人を超えていた。宇沢は、無秩序なクルマ依存が進んでいる原因は、そのユーザーが本来負担すべき費用を負担せず

「外部に転嫁しているためだ」

と指摘した。そして「歩行・健康・居住などに関する市民の基本的権利を侵害しないように道路やクルマを改良した場合の投資額」を自動車1台あたり1200万円と推定し、それをクルマ利用者に割りふると年額で

「約200万円」

になるという数字を示した。この額は今でも驚くほど高額だが、当時の大学卒の初任給が7〜8万円の時代である。

 これは大きな論争を巻き起こし、当然ながらクルマ・道路関係者から非現実的で過大な推計だという批判が殺到したが、宇沢氏の著書は今も増刷を重ねるロングセラーとなっている。

宇沢弘文(画像:日本学士院)

「クルマ強制社会」の形成

 宇沢氏の著書の時点(50年前)に比べれば、交通事故死者は数字の上ではかなり減少し、大気汚染や騒音なども改善された。しかし社会的な面でクルマの最も大きな負の側面は、クルマがないと基本的な生活ニーズも満たせないように

「地域と社会の構造」

を変えてしまったことだ。

 日本のモータリゼーションの初期には、クルマはまだぜいたく品の性格があったが、現在ではむしろクルマがないと基本的な生活ニーズも満たせない

「クルマ強制社会」

が形成されてしまった。

 単に不便の範囲を超えて就職さえ制約される。大都市以外ではクルマがないとアルバイトやパートにも出られないし、日常の買い物や通院さえできない。ネット上には「高齢者の迷惑運転」というドラレコ映像が数多くアップされているが、その投稿者は自分が高齢になったらどうするつもりなのか。

 公共交通は大都市でさえ必ずしも便利とはいえない上に、ダイヤ改正のたびに減便・路線の廃止が続く。

「最後の公共交通」

とされるタクシーも大都市以外では存続が危ぶまれる。

縦軸は交通事故死者(人/年)、横軸は自動車走行量(億km/年)。警察統計より(画像:上岡直見)

交通事故が起こる理由

 しばしば運転マナーに関して

・名古屋走り
・伊予の早曲がり
・茨城ダッシュ

などとやゆされる悪慣習が事故多発の要因として取り上げられる。しかしそれは

「都市伝説」

にすぎない。

 図は1994(平成6)年、2005年、2015年とおおむね10年おきに、都道府県別に年間自動車走行距離と交通事故死者数の関係を示したものである。自動車走行量と交通事故死者はほぼ比例関係にある。つまり“マナーの問題”などではなく、

「自動車の走行距離が多い都道府県ほど、交通事故死者数が多い」

という単純な関係である。図で年を追って直線の傾きが緩やかになっているのは、全国的な交通事故対策がそれなりに効果を挙げてきたことを示す。

 しかし交通事故の支配的な要因は自動車の走行距離だという比例関係には変わりがない。国策として

「誰でも簡単に免許が取れ、クルマが運転できる」

という状態を推進してきたのだからそれも当然だろう。

スウェーデンの首都ストックホルム(画像:写真AC)

交通事故の撲滅可能性

 こうした構造的な問題は“個人のモラル”では対応できない。

 スウェーデンでは1997年に、交通事故による死者・重傷者をゼロにする目標を掲げた「ビジョン・ゼロ」を国会で決議した。ゼロという数値目標は非現実的だと批判も起きたようだが、本来の趣旨は、運転者・歩行者の個人的要因(ヒューマンエラー)に責任を求めるだけでなく、

「道路や自動車の設計者・管理者・運転者を雇用する事業者」

にも責任があることを明示することにある。

 日本でも、店舗突入などを起こす「踏み間違い事故」が、ドライバーの動作だけでなく特定の車種で多発すると指摘されている。単なる風説なのか事実なのか、なぜ公的な調査が報告されないのだろうか。

 ビジョン・ゼロで重大交通事故をシステム的に分析した結果、純粋にヒューマンエラーに基づく事故は全体の7%に過ぎず、残りの93%は

・車両や道路の構造
・規制(速度制限など)

が関係しているという。日本でこれを指摘すると「加害者を免責するのか」という

「的はずれの批判」

に直面することが多く、システム的なアプローチには理解が示されない。しかしそれでは「交通事故で一定数の死亡者・重傷者が発生するのはやむをえない」という前提を認めるのと同じである。

自動車ユーザーのイメージ(画像:写真AC)

現代の社会的費用

 宇沢氏以後にも多くの人・機関が、社会的費用すなわちユーザーが負担すべき費用を負担せず外部に転嫁にしている費用について研究しており、その項目は

・環境
・エネルギー
・混雑
・事故
・土地消費
・インフラ(道路)費用

など多岐にわたる。

 自動車ユーザーは「税負担が多すぎる」との不満が常に聞かれる。例えば自動車工業会は税負担が9兆円にもおよぶ(ただし消費税2兆9000億円を含む)とアピールしている。しかしユーザーが負担すべき費用を外部に転嫁している分もまた巨額である。

 この分野で現代の社会的費用を整理した経済学者の兒山真也氏(兵庫県立大学国際商経学部教授)の試算によると、ユーザーが負担していない社会的費用は、乗用車だけで約13兆円、全体で

「約24兆円」

であり、自動車関係諸税収とは全く釣り合わない。また交通事故に関しては内閣府の試算もあり14兆7600億円との額を示している。

千代田区内の様子。著者撮影(画像:上岡直見)

クルマと道路の使い方の再構築

 一方で物流は貨物車に依存せざるをえない。現代では農家の人でさえスーパーで買い物して、宅配便で物を取り寄せて暮らす時代である。貨物車がなかったら現代人は1日も生活できない。クルマのユーザーが

「貨物車を迷惑視する言説」

が多く見られるが、自分自身も物流に依存して生活し、また道路空間を占有しながら、貨物車を迷惑視するのは奇妙である。

 路上駐車を摘発された軽バンの宅配ドライバーが、激高して警察官につかみかかる動画を見たことがある。都市内の物流は路上駐車をともなわなければ成立しないのに、物流のことを考えていない

「都市や道路のあり方、使い方」

を変えずに末端の宅配ドライバーの負担に押しつけるのは不合理だ。

 また写真は東京都千代田区で、ほとんど無料駐車場と化した路側をクルマが占有し、自転車が避けて通行している。2024年5月に、自転車で無謀走行する「ひょっこり男」が逮捕されメディアで大きく取り上げられたが、

・歩行者が横断歩道にいても止まらないクルマ
・道路脇の駐車場から無頓着に歩道に飛び出してくるクルマ

の「ひょっこりドライバー」は日常茶飯事として問題視されない。いつまでも無秩序なクルマ依存を続けるのではなく、クルマと道路の使い方の再構築が必要だ。それには「社会的費用」の考慮が重要になるだろう。