2019年W杯の活躍で時の人になった同級生たちを尻目に、戦力外通告、さらに所属チームに不祥事が発覚して……前編に引き続き、元ラグビー日本代表・竹中祥の波乱万丈のキャリアを振り返る(NumberWebインタビュー全2回)

 2020年1月に始まったトップリーグはコロナ禍によりシーズン途中で打ち切られ、そのシーズン終了後、竹中祥はNECから戦力外通告を受けた。

 実は、シーズン開幕前、大学1年から患っていた右足首の切開手術に踏み切っていた。長年にわたって苦しめられていた足首の違和感が消え、これならパフォーマンスも上がると思い、懸命にリハビリに励んでいた矢先の出来事だった。

 NECからは一般社員として会社に残る選択肢も提示された。だが、竹中にはもう少し、ラグビーで挑戦を続けたい思いが残っていた。W杯で大活躍した松島幸太朗はコロナ禍の中、フランスリーグのクレルモンへ移籍し、新たなフィールドでのチャレンジを始めた。小倉順平は所属していたNTTコミュニケーションズを離れ、そのシーズンで活動終了が決まっていたサンウルブズに身を投じた。

 保証のないところへ挑戦する同級生たちの姿から刺激を受けないはずがない。しかし、竹中の職場はそう簡単には見つからなかった。コロナ禍でどこのチームも活動を停止。トライアウトを受けようにもどこのチームも練習していない。海外のチームで再出発を目指そうにも、どこの国も国境を封鎖していた。

 そんな時、手をさしのべたのは小倉だった。小倉のエージェントがいくつかのチームに話を持ちかけた結果、トップリーグの日野レッドドルフィンズが竹中に興味を示してくれた。竹中は競技生活を続けることになった。

不祥事発覚で空中分解「何もできなかった」

 だが、そこでも竹中の輝きが戻ることはなかった。

 1年目はリハビリに専念した。リーグワンに再編された2年目はコロナ禍の中、開幕のスカイアクティブズ広島戦に先発し、以後も2試合に途中出場したが、トライはあげられずにシーズンを終えた。

 そして迎えた3年目は、シーズン半ばの2月に、シーズン前の別府合宿での不祥事が発覚。すると会社は早々にチームの活動停止を決定した。

 竹中ら契約選手は事態の正確な検証を求め、反省の姿勢を示すためにもチーム活動の継続を主張したが母体企業にその声が届くことはなかった。何もできないまま、シーズンは強制終了。そしてシーズン終了後、再契約はしない旨が伝えられた。それは竹中にだけではなく、契約の切れるプロ選手全員に対する措置だった。

「何もできなかったですね。ただ、悔しいという気持ちもそんなに湧かなかった。自分の状態は良くなっている感触があったんです。ケガもようやく癒えて、体組成の数値も良くなっていた。体力的にもNEC時代よりも上がって、成長している自信はあった。ただ、それを発揮する場所がなかった」

 あるときは、試合に向けたメンバーで練習することもあったが、週の半ばにケガで離れていた外国出身選手が戻ってきてポジションを奪われた。コーチには『試合に出してあげたいけど、出した試合でケガをしないか怖い』と言われた。

 ラグビー自体の変化も逆に作用した。ラグビーは先発の15人ではなく、リザーブの8人を含めた23人で80分をどう戦うかを問われるスポーツになっていた。リザーブにはチームを加速させるインパクトプレーヤー役が求められ、しかし同時に負傷に備えたバックアップの役目も消えない。必然的に複数ポジションをこなせるマルチスキルの持ち主にリザーブのジャージーは与えられた。WTB専門の竹中に試合出場のチャンスは回ってこなかった。

「コーチの考えは分かります。でもなんか、小綺麗な選手ばかり集まって、色がないな、個性がないな……と思っちゃいましたね。コーチもみんな『NZのスタイルはこうだから』『南アフリカではこうしているから』というようなことばかり言って。結果、どこのチームも同じようなラグビーになってますよね」

 結果的にラストシーズンになった2022年は「自分が試合に出られるかどうかよりも、その日の練習をいかに楽しむか、若い選手が成長できる空気を作るか、そっちを考えるようになっていました」という。

「自分が出るよりも後輩の出番が嬉しい」

 竹中が目をかけていた選手がWTB小島昂だ。明大中野から明大を経て、竹中の1年後の2021年春に日野に加わった25歳。今季のリーグワンでは3部ながら8試合に出場、リーグ5位の5トライをあげている(4月1日現在)。

「僕も日野に来たとき、片岡将さん(現・釜石シーウェイブス)のような、プロ選手として生きてきた先輩選手にお世話になって、アフター練習につきあってもらったりしたし、それを後輩に返していきたかった。小島は明大ではあまり試合に出られなかったようだけど、懐が深くてストライドが大きくて、手足が長くてハンドオフも強い。高さもあってポテンシャルがすごいんです。

 だけどラグビーって試合に出ないと成長できないスポーツですからね。外国人選手がケガで外れたときは正直、自分が出るよりも小島が呼ばれた方が嬉しかったです。今シーズンは試合に出ているし、彼が活躍しているのは嬉しいですね。あとは東郷太朗丸(たろま)。BKはどのポジションでもできるし、何をやらせても上手い。あんなに良い選手はD1にもなかなかいない。代表にも絡んで欲しい」

 自身も現役続行の意思はあった。エージェントにもその希望は伝えた。だが、いくつかのチームに打診はしたが色よい返事はなかったと言われ、やがてその報告も途絶えた。

 プロの契約選手、収入がなくなれば生活も続かない。どこかで区切りをつけなければならない。ラグビー日本代表がW杯フランス大会に向かって浦安合宿、ウォームアップマッチへと向かっていた2023年6月、竹中は現役生活に自らピリオドを打った。31歳の誕生日まで、あと2カ月と迫っていた。

「やりたいことも見えてきていました。現役の間、トレーナーの方々にすごくお世話になって、身体の構造を改めて知ったことで、アスレチックトレーナーになる勉強をしたいと思っていたんです」

 そう思った矢先に、柔道整復師の資格を取れる、自宅から通える専門学校を見つけた。接骨院も開けるから、アスリート相手だけでなく、地域の高齢者や子どもに身体の使い方、ケアの仕方を伝えることもできるだろう。自分自身のスキルアップにもなるし、これからの世の中に必要な仕事だ、やりがいがあると思った。

小倉もW杯メンバーに選ばれた

 一方で、生活していかなければならない。5月末で日野との契約が満了すると、6月から居酒屋で、7月からは並行してスポーツジムでのアルバイトを始めた。働き手不足の時代、仕事を始めたら始めたで忙しい日々がやってきた。桐蔭学園の同級生である松島に続いて、小倉もW杯大会の日本代表に選ばれたというニュースを聞いたのはそんな頃だった。

「こっちから(引退したことを)伝えたりとか、おめでとうとかの連絡はしませんでした。集中しているだろうし、ガンバレ〜! と思うだけ。W杯も、(小倉)順平と(松島)幸太朗が組むんだったら現地に応援に行きたかったくらい。行けなくても、仕事は休みをもらってテレビを真剣に見て応援しようと思ったけど……順平はなかなか試合に出るチャンスがなくて、せっかく選ばれたのに寂しかったですね。幸太朗を一番うまく活かせるのは順平だと思う。僕にとってもそうだったし。結局、日本代表の試合はバイトしながらスコアを見ていました」

 自分がそこにいられたら、という思いは頭を過ぎらなかったのだろうか? その問いに竹中は笑って首を振った。

「2019年のときから、一緒にやっていた選手がたくさん出ていて嬉しいなと思って応援していましたから。(松島)幸太朗も(福岡)堅樹も大活躍したし、リーチ(マイケル)さんとか少し上の世代もいた。僕は代表に1回入れただけで十分すぎるくらいの経験ができたし、もう代表を目指す思いはなかったです。そもそも、ジェイミー(ジョセフ)の目指すあのラグビーだったら、自分がベストの状態だったとしても呼ばれる可能性はないよね、と自分で悟っちゃってた(笑)」

 松島や小倉がW杯を戦っていた頃、竹中は新たな目標をみつけていた。地元の西多摩地区でラグビーフレンドシップアカデミーを運営しているNPO法人の清水佳忠代表から誘われ、同法人のシニアチームであるクラブチーム「SQUEEZE」のプレーイングコーチ兼アカデミーと東京西多摩ラグビースクールのコーチとして子どもたちの指導を始めたのだ。

「救われました」と竹中は言う。

「正直、現役の最後の頃はラグビーを嫌いになりかけて、引退したらラグビーからは離れたいと思っていた。でも、こんな僕にでも子どもたちは憧れの目で見てくれて、ラグビーを純粋に楽しんでくれる。ボールを持ってぶつかったり倒れたりするのが楽しくて、練習中も笑いが絶えない。一緒にやっていて、僕も自然と笑顔になって、ラグビーにまだ関わっていたいな、という気持ちになりました」

「今のキャラ、嫌いじゃないです」

 傍観者からは、あの才能の塊が、31歳というプレーヤーとして脂ののった年齢でジュニア育成に転じていることに寂しさと、あえていえば違和感を禁じ得ない。だが竹中はそんな見方を笑って否定した。

「僕は自分の今のキャラ、嫌いじゃないです。こうなるに至った人生、どれが欠けてもこうはなっていない。そりゃあ、高校を出たときに幸太朗と同じように海外に行っていたら、プレーヤーとしては違う未来があったかもしれないけど、筑波に行ったから学べた、経験できたこともたくさんある。足首を捻挫したまま日本代表へ行ったことでケガを増やしたかもしれないけれど、小野澤(宏時)さんや廣瀬(俊朗)さん、大野(均)さんや菊谷(崇)さんと一緒にあれだけ濃い時間を過ごせたことは僕の宝物です。

 最後は日野に行って、出場機会は少なかったけど、プロのラグビー選手としての生活も経験できたし、片岡(将)さんのようないろいろな経験を積んできた先輩と接することもできた。どれも、誰でもできる経験じゃない。傍から見たら悪いことの方が多かったように見えるかもしれないけど、僕自身はラグビーをやってよかったなと今本心から思っているし、謙虚でいられる。子どもたちの笑顔を見て、ラグビーっていいスポーツだな、と思いますもん」

 本人が納得しているのなら、くどくど言わずにエールを贈るべきだろう。そう悟りつつ、インタビューの最後に、個人的な思いを伝えさせてもらった。

――引退試合というか、試合している姿をもう一度見せてほしいな。もしできたら、あと何年かしたら、あの花園のドローの再試合をしてくれないかな。

 その問い(ですらないが)に、竹中は嬉しそうに「それ、いいですね」と答えてくれた。

 2011年1月、31-31の同点で終わった桐蔭学園vs東福岡の一戦の延長戦――小倉も松島も、東福岡の布巻峻介も藤田慶和もまだまだ現役、実現するとしてもまだまだ先のことだろう。それでも、そのくらいの夢は持っていたい。

 たくさんの経験を積んだ元チームメイトやライバルたちと一緒にピッチに立ち、疾走する竹中の姿を西多摩の子どもたちにも見て欲しい。何より、竹中に走って欲しい。爆走トライをあげて無邪気に喜ぶ姿をもう一度見たい。そう思った。

(前編から続く)

文=大友信彦

photograph by JIJI PRESS