2023ー24年の期間内(対象:2023年12月〜2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。格闘技・ボクシング部門の第2位は、こちら!(初公開日 2024年3月15日/肩書などはすべて当時)。

22歳11カ月での横綱昇進――天賦の才に恵まれ、将来を嘱望された双羽黒こと北尾光司は、なぜ優勝未経験のまま角界を去ることになったのか。付け人の集団脱走、ちゃんこの味をめぐっての言い合い、そして失踪……。トラブルメーカーと伝えられた“消えた天才横綱”の知られざる素顔に迫った。(全2回の1回目/後編へ)

入門当初から「末は大関、横綱間違いなし」

 この男が力士人生を最後まで余すことなく全うしていたら、昭和末期から平成にかけての相撲史も大きく変わっていたことだろう。おそらく千代の富士の優勝回数も激減し、のちに横綱となる“若貴兄弟”や曙らの出世も遅れていたかもしれない。横綱・双羽黒の志半ばにしての“廃業”はつくづく惜しまれる。

 三重県津市出身の双羽黒こと北尾光司は、地元の小中学校を卒業後の1979年(昭和54年)春場所、立浪部屋から本名で初土俵を踏んだ。15歳ですでに身長195センチ、体重110キロの堂々たる体格で、入門当初から「末は大関、横綱間違いなし」と言われていた。期待通りの出世を果たすが、幕下は丸3年とやや時間を要し、その間に故障と脱走を繰り返したあたりは、のちのトラブルの前兆のような気がしなくもない。

 1984年初場所で関取に昇進すると十両は4場所で通過し、同年秋場所で新入幕となった。当時21歳で199センチ、148.5キロ。2メートル近い長身ながら均整の取れた体つきで柔軟性もあって懐も深く、大器にふさわしい素質の持ち主だった。さらに、長いリーチを生かした突っ張りや、立ち合いで素早く取った左上手を引きつけながら、右の差し手を返しての寄りは、技術的にも非凡なものを持っていた。

 入幕2場所目には横綱・北の湖から初顔で金星を奪ったほか、北天祐、朝潮、琴風の3大関を撃破し、8勝7敗で殊勲賞を受賞。以後、新関脇で途中休場した1985年夏場所を除き、毎場所2桁勝ち星と三賞を獲得する活躍で、新入幕からわずか所要8場所で大関に昇進した。

「身長のわりに下半身がしっかりして、膝にゆとりがある。脇も固いし、右のおっつけもいい。昔なら巨人型なのにバランスが取れてますよ」(『戦後新入幕物語 第4巻』ベースボール・マガジン社)と優勝32回の大横綱・大鵬親方も“ベタ褒め”だった。

「ちゃんこの味」をめぐっての言い合い、そして失踪

 大関3場所目には初日から10連勝で単独トップに立ち、初優勝のチャンスが訪れたが、横綱・千代の富士との千秋楽相星決戦に敗れて涙を飲んだ。続く名古屋場所も10戦勝ちっぱなしと突っ走り、11日目に土がついたものの1敗のまま全勝の千代の富士を追いかけ、千秋楽の直接対決を制して優勝決定戦に持ち込んだが、またもや念願の初賜盃には一歩及ばず。

 12勝の準優勝、14勝の優勝同点というやや甘い成績ながら、当時は千代の富士の一人横綱が続き、保志(のちの北勝海)が大関昇進を確実にしていたため、前例のない6大関に膨れ上がるという状況も大器を後押ししたと思われる。場所後の横綱審議委員会では心技体の「心」の部分が問題視され、一委員が「天皇賜盃を一度も手にしたことがない力士が横綱になるということは、相撲の国技たるゆえんを軽んずるものではないか」と異を唱え、全会一致とはならなかったが、将来性に免じて第60代横綱に推挙されることになった。

 昇進を機に四股名も本名の北尾から、所属する立浪部屋が生んだ双葉山、羽黒山の2横綱に因み「双羽黒」に改名した。当時の春日野理事長(元横綱・栃錦)が名付け親であったが、それだけ22歳の新横綱には部屋や一門を超え、協会全体の期待が懸かっていた。

 横綱昇進後も千代の富士とは3度にわたって千秋楽まで優勝を争うも、いずれも厚い壁に跳ね返された。「心」の成長が課題とされた青年横綱だったが、1987年の秋巡業中に付け人6人が“集団脱走”する騒ぎを起こすと、同年末には自身が失踪。ちゃんこの味をめぐって言い合いとなり、部屋のおかみさんを突き飛ばして出て行ったとされた。

 師弟関係はもはや修復不可能だった。度重なるトラブルの末、大晦日に師匠(元関脇・羽黒山)から廃業届が提出され、未完の横綱は24歳の若さで一度も幕内優勝を遂げることなく角界を去った。

「綱を張った男」の指導力と、滲み出る相撲愛

 その後はスポーツ冒険家、プロレスラー、格闘家、実業家と肩書きを変えたが、2003年(平成15年)9月、元小結・旭豊に代替わりした立浪部屋を16年ぶりに訪問し、一時期アドバイザーも務めた。

「『あのときこうだったら、こうしてたのに』というジレンマはありました。でも、相撲は嫌いじゃなかったし、わだかまりは全くありません」

 古巣に復帰した北尾氏に当時、話を聞く機会を得た。稽古場の上がり座敷から若い衆に向かって送るアドバイスに耳を傾けてみると、優勝経験を云々言われながらも、同氏がなぜ綱を張ることができたのか、分かったような気がした。

「上手を取られた瞬間は相手の動きが一瞬、止まるんだ。その瞬間に出てみろ。一気にいけるぞ」

 攻めあぐむ力士は目から鱗が落ちたような表情を見せた。黙々とスクワットをこなす別の力士には「親指に力を入れるんだ。そうすれば、立ち合いのスピードがつく」と助言を添えた。

「相撲の動作はすべて理にかなっている。完全な人間工学ですよ」と達観したような言葉は、鍛錬に次ぐ鍛錬で相撲の奥義に触れることができた限られた者からしか出てこないであろう。

 決して声を荒らげることなく稽古場の隅々まで目を配り、若手もベテランも関係なく一人ひとりに淡々と声を掛ける元横綱に、当時レッテルを貼られた“稽古嫌い”というイメージは全く結びつかない。

「師匠がいるので、そんなに顔を出すわけにはいかない。できるだけ協力はしたいけど、遠慮しないといけないところもありますから」と一線を引いてはいたが、滲み出る相撲愛は抑えようがない。

「あのどん欲さを勉強してほしい」と北尾氏が部屋を超えて絶賛する力士がいた。奇しくものちに数々のトラブルを起こすことになる横綱だが、もちろん当時は知る由もなかった。

<続く>

文=荒井太郎

photograph by KYODO